「喪失体験」が引き金に?【なぜ高齢になるとうつが増えるのか】精神科医の和田秀樹先生

母親業や自己肯定感の喪失が引き金に

意外に重大な喪失体験は、アイデンティティ(自分が他者や社会から認められているという感覚のこと)の喪失です。女性が多く経験するのは「母親アイデンティティの喪失」です。もちろん、子どもはそのまま存在しているので、母親は母親のままなのですが、子どもが、特に男の子が結婚すると、配偶者(妻)に頼るようになり、母親の役割を失ってしまうことは珍しくありません。ストリーンという精神分析学者によると、奥さんに靴下まで洗ってもらうようになると、だんだんと奥さんを心理的に母親のように思うようになるとされます。日本の場合、子どもができると、妻のことをママと呼んだり、お母さんと呼んだりするのでなおのことです。妻が夫に小遣いをあげることも珍しくないので、さらに心理的に妻が母親化しやすいのです。逆に本当の母親にとっては、心理的に母親の座を追われる気分になります。

また、会社に勤務していたとき、役職についていた人は〇〇会社の部長や課長という肩書がありましたが、退職すると名無しの権兵衛のようになってしまうことがあります。

欧米、特にアメリカでは、会社にいる頃も、やめてからも、どんなに役職が高い人でも、トムはトムなのですが、日本の場合は、会社にいるときには名前で呼ばれず、課長とか部長と呼ばれることが多いので、そのアイデンティティが失われるのです。これは人によっては深刻な喪失体験になります。大学教授が、教えなくなっても名誉教授の名にこだわるのは、このためでしょう。

私は、38歳で常勤の医者を辞め、医長とか部長にならず、医学部の教授にもなれませんでしたが、このようなアイデンティティ喪失を経験することを避けた側面もあります。「和田秀樹の名前で生きていけば、一生、和田秀樹だ」と思い、なんとか、名前で通用する人間になりたいと思ったのです。最近は、女性も定年まで仕事を続けることが多くなったので、このアイデンティティの喪失は男性ばかりの話ではなくなりました。

その他の喪失体験として、現代精神分析の世界で重要視されているものに、自己愛喪失というものがあります。自己愛というのは、自分で自分を愛するとか、自分が特別なものだと思いたい心理で、古典的な精神分析では脱却しなければいけないものと思われていましたが、現代精神分析では、それが満たされないと精神的に不安定になると考えられています。

高齢になると、自分は生きている価値がないとか、自分は邪魔で迷惑をかけている存在だとか思うことが多くなります。自分で自分を愛せなくなるのです。これがまさに自己愛喪失の状態です。日本の場合、LGBTの人が子どもを産まないことでさえ生産性がないと発言するような人が国会議員になるような国ですから、仕事をしなくなり、年金生活者になると、自分は世の中に迷惑をかけている存在だと思ってしまう人も、他の国より多い気がします。

現代精神分析の考え方では、自己愛というのはうぬぼれでなく、他人によって満たされると考えられています。人に認めてもらう、人にほめてもらうというだけでなく、その人と一緒にいると自分まで強くなったと思えるような対象や、この人とは同じ人間なのだと思えるような仲間も自己愛を満たしてくれる対象だとされています。ところが、歳を取るにつれ、その手の自分をほめてくれる人や、メンター(指導者や助言者、相談者)のような人(通常は年上です)、あるいは心から打ち解けあえる仲間などを失うことが増えてきます。そういう意味でも自己愛喪失を経験しやすいのです。

【喪失体験とうつ病】
高齢期に起こるさまざまな喪失体験がうつ病の原因になることも。

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見た目の老化や体力低下も喪失感に

自己像の喪失というのもあります。鏡に映った自分の姿が昔のものとすっかり違ってしまい、老いさらばえてしまったように感じたり、あるいは、かつては頭がいいと思っていたのにそうは思えなくなったり、仕事ができると思っていたのにそうでなくなったりすると、自己イメージそのものを失った気がするのです。足腰の衰えなど、身体能力の喪失もそれに入るでしょう。喪失体験だとは思われないのに、意外に心理的に重要なのは、感覚器(の機能)の喪失です。「耳が遠くなった」「目が見えにくくなった」という体験は、世間から遠ざかったり、人の話に入れないという形での喪失体験になり得るのです。

このようなさまざまな喪失体験が、そうでなくても脳内のセロトニンが減っている高齢者をうつ病にしてしまうことは、ぜひ知ってほしいと思います。そして、喪失体験以外に、うつ病の心理的要因になるのが不安です。前述のように、脳内のセロトニンが減ってくると、不安を感じやすくなると考えられています。

高齢期の不安から心を病むことも

高齢者は、さまざまな不安を抱えやすいものです。いちばん大きな不安は死への不安です。人間、誰でも死ぬのは怖いものですが、高齢者の場合は、それがリアルに迫ってくるという問題があります。身近な人が亡くなることで、その感覚が余計に強くなります。高齢になることで、死への恐怖が和らぐ人もいる反面、死への不安や恐怖に振り回される人も確かにいます。

コロナ禍で、足腰が弱ると分かっていても、感染の恐れから外に出られない高齢者がたくさんいることを実感しました。私の外来にも家族が薬を取りに来て、「最近、コロナが怖いと言って一歩も外に出ないのです」とおっしゃる方がたくさんいました。聞くと、ほとんどの人は足腰が衰えたようですが、死への恐怖は、犠牲を払ってでも避けたいのでしょう。

 

<教えてくれた人>

和田秀樹(わだ・ひでき)先生

東京大学医学部卒業。精神科医。ルネクリニック東京院院長。高齢者専門の精神科医として30年以上にわたり高齢者医療の現場に携わる。近著『80歳の壁』(幻冬舎新書)は59万部を超えるベストセラー。他、著書多数。

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『65歳からおとずれる 老人性うつの壁』

(和田秀樹/KADOKAWA)

1078 円(税込)

幸福な高齢者になるには、65歳からおとずれる「老人性うつ病」の壁を乗り越えることが必須。30年以上にわたって高齢者の精神医療に携わってきた著者が教える「うつに強い人間になって、人生を楽しむための一冊」。

※本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

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