刀鍛冶となるため男として過ごす少女・美禰と、伊勢に流された徳川の若き殿様・松平忠輝の運命の恋の物語を描く、鷹井伶著の長編時代小説『わたしのお殿さま』(KADOKAWA)。時は江戸、紀伊半島の中心部に位置する霊峰を仰ぎ見る地に暮らす、美禰。女人禁制の鍛冶場で、刀鍛冶の名匠である祖父・月国の後継者となるため、鋒国(みねくに)という名を頂き、男を装うように育てられています。その地へ流罪となってやってきたのは、徳川家康の六男・松平忠輝。父の死後3カ月足らずで腹違いの兄である将軍秀忠によって配流にされてしまいます。七月七日、里で行われている七夕の神事を眺めていた美禰。そこに突如、獰猛な熊があらわれて──。神の地・伊勢で巡り会う、運命に翻弄される美禰と忠輝。ふたりの恋の行方は?
※本記事は鷹井 伶著の書籍『わたしのお殿さま』(KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。
序
静かな夜だった。
見上げれば、まるで砂金を流したように天の川が煌めいている。
清廉な星の光を受けながら、神事を見守っていると、突然、背後から大地を引き裂くような激しい咆哮がした。と同時に、村人の一人が横殴りにされ、吹っ飛んだ。
邪悪な唸り声を上げながら、真っ黒な体毛の獣が立ち上がる。六尺(約一八〇センチ)はあろうかというほどの巨大な熊だ。
一瞬の間の後、どこかで女の悲鳴が上がり、それを合図に恐怖に駆られた人たちが我先にと逃げ始めた。泣き叫ぶ子を抱えて走る親、「逃げろ」と叫ぶ声も聞こえてくる。
逃げなければ......。
わかっていても、足は竦み、動かない。
それでも、無理やり後ずさりすると、足がもつれそのまま尻餅をついてしまった。
熊は容赦なく近づいてくる。
獰猛な顔が目の前に迫った。尖った爪、大きな口、牙、赤い舌......。
駄目かと観念して、目を閉じた刹那、身体がふわっと浮いた。
何が起きているのか。
目を開けると、見知らぬ男の逞しい腕に横抱きにされ、そのまま宙を飛んでいた。
男は人とは思えないほど軽々と跳躍していき、熊が登ってこられない高さの岩の上まで飛び上がると、そっと降ろしてくれた。
「......大事ないか」
深く柔らかな声だ。
小さく頷き、初めて声の主を見た。
すっきりとした首、顎、くっと上がった口角、すっと通った鼻筋、夜空に瞬く星のように美しく澄んだ瞳......。
それがわたしのお殿さまだった。