<この体験記を書いた人>
ペンネーム:ひろえもん
性別:女
年齢:56
プロフィール:4匹の猫とちょっと頼りない夫と海辺の街で暮らす普通のおばちゃんです。
もう10年以上前の話になります。
当時72歳の認知症ぎみの実父の面倒を見ていた65歳の実母が突然倒れ、救急搬送された時のことです。
2週間の入院の間、私達夫婦が代わりに父を介護することになりました。
まずはデイケアセンターに迎えに行った時。
父は「これは、ご苦労さん」と実の娘である私に深々と頭を下げたのです。
いくら遠方で実家に戻る機会が少なかったとはいえ、ショックでした。
「何ゆうてんの! お父さん。帰るよ!」と父をタクシーに押し込み帰宅。
しばらくすると「そろそろ家に帰らせて頂こうかな」と言いだす始末。
「家はここやがな」と言うと「確か、坂の下だったと思うのですが」と敬語を使い出し、首を傾げる父。
家に入って少しして電話の方を見ると「家に帰れません」と警察に通報していました。
慌てて事情を説明して謝りながら電話を切りましたが、帰宅してからずっと父は私を娘と認識していなかったのです。
夫が「小さい時の写真見せたら?」と言うので、幼い頃のアルバムを引っ張り出して父に説明しました。
「ほら、これ、パパ。これが私」
ほとんど面影が変わらない私と写真を見比べ、父は「ホンマや!」と。
この時ほど写真撮っといて良かった! と思ったことはありません。
父が子供の私しか覚えてないのがとても不思議で、「人間は幸せな記憶は忘れず、辛いことは忘れてしまえるのかもしれない」と思い、少し救われたような気持ちになりました。
ただ、問題はこれだけでは無かったのです。
父が2階の自室から5分毎に降りて来ては1階の母の部屋を開け「お母さん、どこ行ったん?」と聞くのです。
母が緊急搬送された時、父は家に居たので知らないはずがありません。
最初は「お母さんは救急車で運ばれて今入院してる」と普通に答えていたのですが、5分毎に母の部屋を開け、「お母さんどこ?」と聞くので、いい加減イライラしてしまいました。
正の字を書き「お父さん、こんだけ聞いてるで」と答えると悲しそうな顔ですごすごと部屋に戻ります。
でも5分後にはまた、同じことの繰り返し。
ついに『お母さんは救急車で運ばれ入院中です』と書いた貼り紙をしました。
「お父さん、アレ」と指差すと「口でゆうて欲しやん」と悲しむ父。
現役時代の法律の知識を未だにスラスラと話す父が、そんな簡単なことを理解できないことが心から腹立たしかったのです。
とうとう20回目に達し、父も私も半ベソをかいていましたが、ガラッと母の部屋の戸を開けた父は「あ、おったわ」と言ったのです。
え...?
パタンと戸を閉め、上機嫌で2階に上がる父。
おそるおそる母の部屋を覗くと...。
母が愛用していたカツラを被った夫が、後ろ向きで正座していたのです。
「お父さん、安心したな」と夫。
いくら母が元マラソンランナーで、靴のサイズが27㎝でも「無理あるで」とは思いましたが、それから2週間の間、父が階段を降りる音がすると夫は必ず母の部屋で待機、父の安眠を守り続けたのです。
多分、父は防衛本能が働き、母の入院という不安な事実を受け入れ難かったのかもしれません。
事実を伝えようと躍起になっていた私でしたが、時にはいっそ「優しい嘘」で安心させてあげることも大事だと気づきました。
また、肉親だと余計に「信頼していた父がなぜ?」と感情的になり、冷静に対処できないこともあったのですが、ドライな距離感の夫のほうが父のことを思いやることができたのです。
認知症の介護は身の回り世話だけではなく、家族の思い出が崩壊しそうになる精神的ショックが辛いものでした。
認知症になった父と今後どういう関係を築き、愛情を再構築していくべきなのか...?
答えは見えませんがきっと見つけてみせます。
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