私たちは生れてこないほうが幸せなのか?/岸見一郎「老後に備えない生き方」

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「今を生きる」。

前回の記事:どう生きることなのか?「今を生きる」の2つの誤解

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生まれてこないのがいいのか

古代のギリシア人にとっては、生まれてこないことが一番幸福で、次に幸福なのは生まれてきたらいち早く死ぬことだった。

今日、このような考えは到底受け入れられないだろう。

苦しみから逃れるために、今すぐ死ねばいいということにはならないからだ。

それでも、このギリシア人の考え方が荒唐無稽とは言い切れない。

それほど生きることがつらく苦しく感じられることがある。

こんなに苦しいのなら生まれてこなければよかった。

これ以上苦しまないためには今すぐに死ねばいい。

そう考える人もいるはずである。

ギリシアの七賢人の一人とされるアテナイの政治家であるソロンがリュディアの王であるクロイソスを首都のサルディスに訪ねた時、クロイソスがソロンに次のようにたずねた(ヘロドトス『歴史』)。

「諸国を漫遊する中で、誰かこの世界で一番幸福な人間に会ったか」

クロイソスは自分の名前が挙げられることを期待していたのだが、ソロンは別の人の名を挙げた。

ここではソロンが名を挙げた人について見たい。

ソロンは若死にした二人の青年の名を挙げた。

なぜソロンはこの二人が幸福な人間だと考えたのか。

二人は、ある時、ヘラ女神の祭礼に母親を連れて行こうとした。

その際、牛車に乗せて社(やしろ)に行くはずだったが、畑仕事の都合で牛が間に合わず、二人が代わりに牛車を引いた。

母親は神に親孝行の息子たちに、人間としての最上の運を授けてほしいと祈った。

犠牲と饗宴の行事があってから、社の中で眠った二人の息子は、そのまま再び目を覚ますことはなかった。

「神々に愛される人は若くして死ぬ」というメナンドロスの劇に出てくる言葉がある。

ギリシア人にとって、若くして死ぬことは神の恵みなのだ。

この母親が子どもたちの死を神の恵みと思えたなら、最上の運が与えられたと神に感謝しただろう。

しかし、私は苦しみから免れることが幸福だとは思わない。

プラトンがいうように「どの生き物にとっても生まれてくるということは初めからつらいことなのだ」(『エピノミス』)。

苦しみは、鳥が飛ぶために必要な空気抵抗のようなものである。

鳥は真空の中では飛べない。

空気抵抗としての風の中でこそ鳥は飛ぶことができる。

時にあまりに風が強く鳥が押し戻されているのを見ることがある。

それでも鳥は飛ぶのをやめない。

生きることは苦しい。

しかし、その苦しい人生をあなたが真剣に生きていることが、何よりも他者への貢献である。

ぜひ、じっくりと読んでみてください。岸見一郎さん「老後に備えない生き方」その他の記事はこちら

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2020年3月号に掲載の情報です。

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