哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「今を生きる」。「今を生きる」とはどういうことなのでしょうか――。
今を生きる
ローマ皇帝のマルクス・アウレリウスが次のようにいっている。
「たとえお前が三千年生きながらえるとしても三万年生きながらえるとしても、覚えておけ。何人(なにびと)も今生きている生以外の生を失うのではないこと、今失う生以外の生を生きるのではないことを」(『自省録』)
これは前にも(第16回)引いた。
続きがある。
「だから、もっとも長い生、もっとも短い生も同じことだ」
人生をどれだけ長く生きたかは問題にならないということだ。
「今はすべての人に等しく、したがって失われるものも等しい。かくて、失われるのは束の間のことであるのは明らかだ。過去と未来を失うことはできないからである。持っていないものをどうして彼らから奪うことができるだろうか」
過去と未来は持てないのである。
「各人は束の間のこの今だけを生きている。それ以外はすでに生き終えてしまったか、不確かなものだ」
過去は「すでに生き終えて」しまっていて、もはやどこにもない。
過去を取り戻すことはできない。
他方、未来に何が起こるかは誰にもわからない。
その意味で「不確かなもの」だ。
明日必ずこうなるだろうと想像していても、その通りになることは決してない。
それでは、「今」を生きるとはどう生きることなのか。
二つの誤解を解きたい。
まず、それは緊迫して生きることではない。
「すべての行為を生の最後の行為のように行う」(『自省録』)
この一節を読んだ時、私は『白痴』の中でムイシュキン公爵がある死刑囚について、次のようなことを語っているのを思い出した。
ついに、後生きていられる時間が五分間ばかりであることがわかった時、この五分間がはてしもなく長い時間で、莫大な財産のような気がした。
そこで、この時間を次のように割り振ることにした。
まず、友だちとの別れに二分。
最後にもう一度自分自身のことを考えるための二分。
そして、残りの時間はこの世の名残に、あたりの風景を眺めるために充てることにした。
教会の金色の屋根の頂きが明るい日光にキラキラと輝いているのを男は執拗に見た。
この男によれば、いよいよ自分が死ぬことになった時、もっとも苦しかったのは絶え間なく頭に浮かんでくる次のような考えだったという。
「もし死なないとしたらどうだろう! もし命を取りとめたらどうだろう! それはなんという無限だろう! しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ! そうなったら、おれは一分一分をまる百年のように大事にして、その一分一分をいちいち計算して、もう何一つ失わないようにする。いや、どんな物だって無駄に費やしやしないだろうに!」(ドストエフスキー『白痴』木村浩訳)
男は死刑を免れた。
では、その後、彼は「無限の時間」を与えられてどうしたか。
いちいち計算などすることなく、実に多くの時間を空費してしまったのである。
その後、充実した人生を送ったのではなく、「空費」したということにリアリティがあると思った。
「今を生きる」というのは、過去も未来も手放し、その時々楽しむことである。
しかし、一分一分を無駄にせず緊迫して生きることではなく、面白い本を読み耽っていたら、いつの間にか日が暮れていたというような過ごし方である。
カウンセリングで聞いたことをすぐに忘れるので話を簡単にまとめてほしいといわれ、よく「人生を先送りしない」と差し出されたノートに書いていたことがある(第1回)。
長谷川和夫医師(第13回)が次のようにいっている(「認知症 改めて自分を知る」読売新聞、二〇一九年八月一八日)。
「心がけているのは、明日やれることは今日手をつけること。本を書きたいと思ったら、序文を1行でもいいから書いてみる。手をつけると未来に足を延ばしたことになり、安心できるし、楽しみも増える」
「明日やれることは今日手をつけること」というのは、厳密には「明日やれることでも今日手につけること」だろう。
明日やれるかどうかは実際のところわからない。
明日にしかできないことであれば明日するしかないが、今日わずかでもできることがあるのなら、今日着手することが「人生を先送りしない」ということである。
今日やってみようという決心は必ずしも合理的ではない。
「いちいち計算」して生きるのではなく、ふと今日やっておこうと思ったらやってみると、長谷川医師のいうように「楽しみが増える」だろう。
次に、今を生きるとは刹那主義ではない。
アウレリウスは次のようにいっている。
「人格の完全とは毎日を最後の日のように過ごし、激することなく、無気力にもならず、偽善をしないこと」
ただ今日という日を楽しんで生きるというのであれば、善くなろうとする必要はない。
後は野となれ山となれ、フランス語ではApres moi(nous) ledeluge(アプレ ムワ (ヌ)ルデリュージュ)、私(たち)の後には洪水であってはいけないのである。
ただし、行動を改善するのは今日である。
「お前がこんな目に遭うのは当然だ。今日善くなるよりも、明日善くなろうとしているからだ」
「こんな目に遭う」が具体的にどんなことなのかはアウレリウスは語っていないが、日々ただ生きるのではなく「善くなる」よう努めること、しかも明日ではなく、今日善くなるようにアウレリウスは自分を諫めている。
明日という日はこないかもしれないが、今日善くなれ、私たちが死んだ後に生きる人たちのために。
もちろん、今生きている人のためにも。
何度も見てきたように、人は他者と結びついて生きている。
その他者から与えられるだけでなく、他者に関心を持ち、他者に貢献することをアドラーは「導きの星」と呼んでいる(『生きる意味を求めて』)。
導きの星とは、北極星のことである。
これさえ見失わなければ、旅人が道に迷うことはない。
他者貢献という導きの星を目標としこれを見失わなければ、人生という旅に迷うことはない。
目標というと、未来にあるように聞こえるが、目標は「今ここ」にある。
導きの星は彼方にあるのではなく、真上にある。
つまり、何かを成し遂げなくても、今生きていることで、他者に貢献しているのである。