いつ癌になるかは分からない。それでもできることはある/岸見一郎「老後に備えない生き方」

『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「病気と向き合う」です。

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権内(けんない)にない身体

前回、古代ローマの哲学者であるエピクテトス(55年ごろ~135年ごろ)が「権内にない」という言葉を使っていることを見た。自分の力が及ばないという意味である。

身体についても、エピクテトスはこれをどうすることもできないと考えている。

健康な時には、自分の身体の存在すらほとんど意識することはないだろう。ところが、病気になると、息をすることにも歩くことにも不断に意識を向けなければならなくなる。呼吸が苦しくなると、一歩ごとに立ち止まらなければならない。

そのような時、常は、まったく、あるいは、ほとんど意識することがなかった身体が、その存在を主張するので、いやが応にも身体に意識を向けないわけにはいかなくなる。病気の時は、自分と身体との間に隔たりが生まれるのである。ちょうど他者が自分とは考えや感じ方を異にするように、したがって、他者が決して自分の意のままにならないように、病気になると、身体が自分にとって「他者」になる。

城山三郎が左胸に疼(うず)きを覚え、息切れをし、息苦しさを感じるようになった時のことを次のように表現している。

「わが身の一部でありながら、居所不明のままで居た心臓が、このところ覆面をはずして名乗りをあげ続ける」(城山三郎『無所属の時間で生きる』)

自分と身体との間に隔たりができること、身体が他者になることを見事に表現している。心筋梗塞で倒れたことがある私は「覆面をはずして名乗りをあげ続ける」という表現が非常に的確だと思う。

このような病気の時でなくても、歳を重ねると、身体の存在に意識を向けることが多くなる。そこで、日頃から節制し運動に励んでみても、動脈硬化は進み、コレステロール値も中性脂肪値も高くなる。多分に遺伝的な要因によることが多いからだ。

心筋梗塞で倒れた時、知人の医師から贅沢な食事をしていたのではないかといわれたことがあった。その医師は冗談でいったに違いないが、私は愉快ではなかった。生活習慣病というような言葉も、病気は自己責任だといわれているように思う。実際には、どれほど健康に留意した生活を送っていても、病気になることは避けられないのである。

 
早期発見

それでも、手を拱(こまね)いて何もできないわけではない。できることはある。

まず、可能な限りの早期発見である。自分の身体の声に耳を傾けるということである。このことについては、以前も言及した。

ところが、身体の声に耳を傾けようとしないことがある。いつまでも若くて元気だと思いたい人は身体の衰えを受け入れようとしない。

また、病気の兆候に気づいても、死ぬかもしれないと思うと、自分が病気であることを認めるのは怖い。だから、往々にして身体が発する声に耳を塞ぐことがある。身体の声が聞こえても、つまり、自分の身体の異常に気づいても、無害な解釈にすり替えてしまう。気づきの遅れは時に致命的になることもある。

しかし、自分が病気であることを受け入れることができ、その上で、病院に行くなど適切な対処をすることができれば、身体はある程度は権内にあるものになる。

また、どういう対応をするか考えなければならないが、どうすることが最善かが決まっているわけではない。手術が必要だといわれてもそれを拒むことも、延命治療を断ることもできる。

 

散歩

次に、散歩など運動をすること。散歩が健康によいことは多くの人が証言している。英文学者の外山滋比古(とやま・しげひこ)氏は八十歳を超えても、毎日の歩数が八千歩を下ることはないという(外山滋比古『乱読のセレンディピティ』)。

しかし、健康を維持するためにのみ歩くのではつまらない。何歩歩くかを決めているのか、黙々と一生懸命に歩いている人を見かけることがあるが、散歩そのものを楽しんでいけないわけはない。

私は退院後、近所を散歩し始めた。しかし、ただ歩こうとはなかなか思えなかった。そこで、私は写真を撮ることを覚えた。散歩そのものを楽しもうと思ったのである。そうなると、花や鳥などを撮るために度々立ち止まることが増え、長い距離を歩くことよりも写真を撮ることの方が楽しくなった。しかし、それでもいいのではないかと思う。運動することは大切だが、それ以上に不安から逃れ、今、人生を楽しむことが大切である。

病気にならないため、先のことを見据えて歩くのではない。未来のためではなく、「今」のために歩くのである。

散歩の効用は健康だけではない。じっとすわって長い時間本を読み続けていると時に煮詰まったようになることがあるが、そんな時でも歩けば心も健康になる。ふと何か思いがけない考えが浮かんでくることもある。誰かとぶつかって、嫌な感情に囚われた時も外に出るとたちまち気分が変わる。

 

読書

読書も病気になった時に精神の健康を保つために有用である。これまでの人生で本をあまり読んでこなかった人には、本を読むことはいささかハードルが高いと感じられるかもしれないが、本を読む楽しみを知っていれば、病気で外に出かけることが難しくなった時にも大いに救いになる。

私が高校生の時に倫理社会を教わった先生は「退職したら若い時に買いためた本を読んで過ごす」というのが口癖だった。仕事を辞め身体の自由が利かなくなっても、本を読めさえすれば老年は怖いものではない――これが先生の持論だった。本を読むことで、老いや病気という現実を超えることができるというわけである。

先生の誤算は退職する前に亡くなったことだった。したいことは「今」しなければならないと強く思った。

 

不安を手放す

読者からの相談を見てみよう。

「癌は手遅れになってからでないとわからないことが多いので、いつ自分が癌になるかと思うと不安です。だから一日一日を楽しく有意義に頑張りたいです」

今は癌は早期発見もできる。癌が不治の病だと思われていた頃は、本人に告知しないことが一般的だったが、今は医学の進歩のおかげで治る病気になってきたので告知するようになった。

告知しなければ治療法について説明できないので、インフォームドコンセント(医師が患者に対して、病状や治療法についてわかりやすく説明し、患者の同意を得ること)はできない。

いつ自分が癌になるかはわからないというのは本当である。だからといって、不安になる必要はない。先のことを思い煩って今日という日を生きる喜びをふいにしてはいけないと思う。

「だから一日一日を楽しく有意義に頑張りたいです」といわれるのはその通りだと私も思うが、「有意義に頑張る」とあまり力を入れすぎない方がいいかもしれない。

 

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※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年2月号に掲載の情報です。

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