兄夫婦からの心無い言葉をどう受け止めるべきか/岸見一郎「老後に備えない生き方」

「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載、哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「自分と他者を分別しない」。岸見さんは毎日が発見の読者からの相談にどのように答えるのでしょう?

兄夫婦からの心無い言葉をどう受け止めるべきか/岸見一郎「老後に備えない生き方」 pixta_11719578_S.jpg前の記事「あらゆる争いは自分と他者の分別に起因する/岸見一郎「老後に備えない生き方」(1)」はこちら。

 

判断を加えない

読者からの相談を見よう。

「私は認知症の母を十年あまり家で介護しました。その間、何一つ手伝ってくれなかった兄夫婦から『本当は私たちが看てあげた方がよかった』というようなことをいわれ、かなり疲れきっています。現実には私が看るしかなかったので、頑張ったのに残念でなりません。協力してくれた夫の気持ちも踏みにじられた気がします。私の気持ちを晴らすにはどうしたらよいのでしょう」

兄夫婦が「本当は私たちが看てあげた方がよかった」というのは、自分たちが看るべきだったのにできなかったという劣等感の屈折した表現である。

問題は三つある。まず、「よかった」かどうかの判断は現実の介護についてのみできるのであり、可能的な介護、つまり、実際にはしなかったがしたかもしれない介護については判断することはできないということである。
試験は受けなかったが、もしも受けていたらいい成績を取れただろうといっているようなものである。

次に、「よかった」かどうかという判断は介護された母親しかできないということである。無論、相談者の介護が「よかった」かどうかも母親しかできないことになるが、はっきりしているのは、兄夫婦が下せる判断ではないということである。

だから、「よかった」というのは、本来自分たちでは判断できないことについて判断しようとしているということであり、自分たちの考え、あるいは母親にしてほしかった希望を述べているにすぎない。

もしも「本当は私たちが看てあげた方がよかった」という兄夫婦に応答できるのであれば(しなくていいが)、「あなたたちはそう思うのね」ということである。

さらに、起こったことは、兄夫婦が「本当は私たちが看てあげた方がよかった」といったということだけである。この事実にそれ以上の判断を加えてはいけない。自分は傷つけられたと怒ってはいけない。傷つく必要もない。

 

「八十七歳の認知症の親(夫の親)の介護をし続けているのに『こんな人生になると思わなかった』と憎まれ口をいわれても嫁は投げ出すこともできない」

いつか自分も老い、介護されることになるかもしれないと思っても、本当に自分がそうなるとは思っていない。人は誰もが必ず死ぬということは自明のことだとわかっていても、この自分だけは死なないと思っているのと同じである。

「こんな人生になるとは思わなかった」というのは憎まれ口ではなく、自分の人生についての感想である。老いても元気でいたいと思っていたのにそれが叶わなくて残念だという意味である。介護をする人の苦労を考えに入れずにそんなことをいわれると心穏やかにはいられないだろうが、自分も介護されることになった時に、親と同じようなことを考えるかもしれないと、親を分別しないことが大切である。

 
相手の立場に身を置こう

「今、母の認知力が低下してきているため、母の様子を見ながら自分自身を追い込まないように仕事をしています。職場で過ごす時間があるので、家で母にも優しく接することができていると思っています。
この先の母との時間が密になっていった時の自分自身の心の余裕を考えると心配になります。母の老いと自分自身の老いについて考えることもあります」

心に余裕を持つために親と離れて過ごせる時間があるのはありがたいことである。しかし、共に過ごす時間が増えると、それに比例してぶつかる回数が必ず増え関係が悪くなるというわけではない。むしろ、共に過ごせる時間が増えれば仲良くなることもある。どんな関係もよいか悪いかのどちらかではなく、時にはぶつかることはあっても、そもそも関係がなければ悪くもならない代わりによくもならない。

親との関係のあり方を決めるのは、「実際の」余裕ではなく「心の」余裕の有無であり、ひとえに優しくしようという決心であるから、関係をよくすることはできる。

よい関係を築こうと思うのであれば、しなければならないことがある。それは、過去を手放し今ここで親と仲良く過ごすことである。親との付き合いは子どもの時から始まり長く密なので、こじれると関係の修復は難しいことがある。それでも、親子のどちらかがこれまでの関係をリセットすればいい。

自分も親と同じく老いることを知っていれば、そして、親の立場で親のことを考えられるようになれば、今後の状況の変化とは関係なく、優しく接することができるだろう。

 
「夫八十歳、私七十四歳、今まで健康で順調に過ごしてきましたが、昨年夫の体調が悪くなり、五ヶ月の入院をして今は自宅で療養中です。私がしっかりと夫を支えていこうと頑張っていますが、時折気分が落ち込む時があります。そんな時は自分を高めるために今まで実行してきたことを一つ一つ思い出して、幸せな気持ちになれるように努めています。
夫の私に対するねぎらいのない言動に時々がっかりしますが、前を向いて明るく元気にをモットーにしています」

ともすればできないことに注目してしまいがちだが、できたことに注目することが大切である。振り返れば、私は母の看病をし、父の介護もしたが、後悔の集大成のように思うこともある。それでもできたことの方が、できなかったことよりも多いはずである。

どんなに頑張っていても気分が落ち込むことはあった。そんな時にできるのは、自分を高めようとすることだが、反対に時には落ち込みに自分を委ねるのもその状態から脱却するための方法である。ジェットコースターのように落ち込むエネルギーをそのまま自分を高めるエネルギーにすることができる。無理に落ち込むのをやめようと思うと、落ち込んだところで止まってしまうこともある。

私自身が病気で入院していた時はいろいろな意味で気持ちに余裕がないことがあった。そんな時はまわりの人に感謝の言葉、ねぎらいの言葉をかけることも忘れてしまう。

自分の立場から見れば不満なことは多々あっても、この病気の人の立場に身を置き、もしも自分がこの人と同じ立場であればどう感じるだろうと想像すれば寛容になれる。

病気の夫をしっかりと支えていこうと思いつめない方がいいと思う。病気になる前も後も、二人が協力して生きていくのが結婚の本義である。身体的な援助は必要でも、精神的には今もこれまでと何ら変わりはないのだから、気持ちを楽に日々を過ごしてほしい。

 

※岸見一郎「老後に備えない生き方」その他の記事リンク集はこちら

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年6月号に掲載の情報です。

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