「反出生主義」はなぜ求められる? 「親ガチャ」に通じる「生まれてきたことは素晴らしい」説の残酷さ

なぜ人々は反出生主義を求めるのか

「反出生主義」はなぜ求められる? 「親ガチャ」に通じる「生まれてきたことは素晴らしい」説の残酷さ 親ガチャの哲学

反出生主義に対しては、他にもいろいろな反論が提示されています。そもそもこの理論は、快楽が「よい」、苦痛が「悪い」という前提に立って組み立てられたものです。しかし、この前提が正しいという保証はありません。私たちが別の前提に立つなら、まったく違った答えを導き出すことは可能です。

ただ本書の問題関心に従って考えるなら、そうした専門的な話よりも大事なことがあります。それは、このように極めて理屈っぽい反出生主義が、信じられないほどの熱狂を伴って、日本社会の読者に受け入れられた、ということです。おそらく、反出生主義に対する熱量は、学術的な世界と一般社会との間で、大きく異なっていると言えるでしょう。少なくとも筆者の目には、一般読者のほうが、研究者よりも反出生主義に関心を寄せているように見えます。

哲学の世界には出生に関する様々な理論があります。反出生主義はそのなかの一つに過ぎませんし、また特に際立って革命的だということもありません。一方で、日本の人文書には、反出生主義を取り扱った書籍が多数存在します。特に、ベネターの『生まれてこないほうが良かった』が日本語に翻訳された2017年以降、その数は爆発的に増加しました。この注目度の高さ、そしてそこに示される、学術的な世界と一般社会との間の温度差は、やや異常にも感じます。それは、「生まれてこないほうがよかった」という思想が、それだけ社会から求められていることの証なのではないでしょうか。

だからといって、このような状況を受け研究者が反出生主義について議論し始めても、それが社会の期待に応えているようには思えません。むしろその多くは、関心を寄せる読者にとって、期待外れなものに留まっているように思われます。

おそらくその理由は、反出生主義の研究者たちが、あくまでも学術的な正しさに注目し、なぜそれが社会から求められているのかに、関心を持っていないからです。もちろん、研究者なのですから、理論の正しさにこだわるのは当然です。しかし、社会から求められているものは、学術的な正しさとは別の次元にあるのでしょう。

反出生主義が支持される裏に隠されたモノ

では、なぜ、反出生主義は社会から求められているのでしょうか。読者はその思想に何を期待しているのでしょうか。

おそらくそれは、「生まれてきたことは素晴らしい」といった、出生を美化する言説に対する、強烈なアンチテーゼなのではないでしょうか。そうした言説のなかで沈黙を強いられ、無視され、存在しないものとして扱われてきた苦しみに、声を与え、形を与え、強さを与えてくれる言葉なのではないでしょうか。

本書の主題である親ガチャ的厭世観と、反出生主義の間に、直接的な理論的連関はありません。しかし出生を賛美する言説のなかでは、両者の根幹にある苦しみは承認されないままになってしまいます。その点で、両者は通じているのです。苦境に追い込まれながら生きる人にとって、「生まれてきたことは素晴らしい」と言われることが、いかに残酷なことであるかは、想像に難くありません。出生を賛美する言説は、多くの場合、その残酷さに無頓着なのです。

「生まれてこないほうがよかった」という思想が、どれほど呪わしく、どれほどダークに響いたとしても、そう言わなければ生きることさえままならない人々がいることを、私たちは忘れるべきではありません。理論の正しさに拘泥することは、そうした人々に向かい合うことにはならないのです。

反出生主義の正しさについては、それを専門とする研究者たちに任せておきましょう。本書が考えたいのは、そうした思想を求める社会の欲望であり、つまり、親ガチャ的厭世観なのです。

 

戸谷洋志(とやひろし)
1988年生。関西外国語大学国際英語学部、准教授。ハンス・ヨナスを主要な対象としながら、「技術」と「責任」をキーワードに研究しています。また、未来世代への倫理をより包括的に検討しています。一方で、教育・社会連携活動として、哲学対話・哲学カフェにも携わっています。

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※本記事は戸谷洋志著の書籍『親ガチャの哲学』(新潮社)から一部抜粋・編集しました。

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