「反出生主義」はなぜ求められる? 「親ガチャ」に通じる「生まれてきたことは素晴らしい」説の残酷さ

反出生主義を論破できるか?

「反出生主義」はなぜ求められる? 「親ガチャ」に通じる「生まれてきたことは素晴らしい」説の残酷さ 親ガチャの哲学

こうしたベネターの反出生主義に対して、私たちは反論することができるでしょうか。

最初に思いつく反論は次のようなものでしょう。たしかに苦痛がないことはよいことかも知れません。しかし、私たちがこの世界に生まれてくれば、それをはるかに凌駕するくらいに、多くの快楽が生じる可能性があります。

少なくとも、生まれてきてよかったと思っている多くの人は、たとえ人生のなかで苦痛を経験するのだとしても、その引き換えに得られた快楽が、生まれてきたことを肯定するに足るほど、十分なものだと考えているはずです。そうだとしたら、非対称性原理は根本から崩れるのではないでしょうか。

このような反論に対して、ベネターは、自分の人生には十分にたくさんの快楽がある、という判断そのものが、疑わしいものに過ぎない、と切り返します。どういうことでしょうか。

ベネターは「ポリアンナ効果」と呼ばれる心理学的な概念を紹介しています。これは、否定的な記憶よりも肯定的な記憶をより強く保持する、という心理的な傾向を指すものです。

ベネターによれば、同じくらい嫌なことと嬉しいことを経験したとき、人間は嫌だったことを忘れようとし、嬉しかったことだけを記憶しようとします。したがって、私たちが人生のなかで経験する苦痛の多くは、記憶から零れ落ちて思い出せなくなってしまいます。その結果、自分の人生には、生まれてきたことを肯定するに値するだけの十分な快楽がある、と思い込んでしまうのです。

そんなことはない、と思われるのであれば、あなたがこれまで人生の中で、何回空腹を感じたことがあるかを思い出してみてください。何回身体が痒くなったことがあるかを思い出してみてください。そうした記憶があなたにどれだけ残っているでしょうか。これらはすべて苦痛です。しかし、嬉しかった記憶、たとえば美味しいものを食べた記憶に比べれば、それらははるかに簡単に忘れられてしまうのではないでしょうか。

もちろん、そうした些細な苦痛だけが簡単に忘却されるわけではありません。非常に激しい悲しみを経験したとき、あるいはトラウマとなるようなショッキングな出来事と遭遇したときも、私たちは記憶に蓋をして、それらを思い出すまいとします。そうしなければその後の人生を生きていけないからです。

人間の心にはポリアンナ効果が作用している――それを前提とするならば、そもそも私たちには、自分の人生にどれだけの快楽と苦痛があるのかを、客観的に判断することができません。したがって、自分が人生で経験する快楽の量を根拠にして、反出生主義に反論することはできないのです。

もう一つの典型的な反論として挙げられるのが、反出生主義は自殺を肯定するのではないか、というものです。もしも人間が存在しないほうがよいのなら、いま存在している人間も存在しなくなるほうがよいのであって、したがってすべての人間がただちに自殺するべきだ、と主張することになってしまいます。それは受け入れられない結論なのだから、反出生主義は間違っている――そうした反論です。

この反論に対して、ベネターは次のように再反論しています。すなわち、人生が始めるに値するか否か、ということと、人生が続けるに値するか否か、ということは、厳密に区別しなければならない、ということです。

「始めるに値するか否か」で問題になるのは、人生が始まる前に、それが始まるべきか始まるべきではないか、ということであり、つまり出生をめぐる選択です。それに対して、「続けるに値するか否か」は、いまあるこの人生を途中でやめるべきか否か、すなわち自殺するべきか否かを問題にしています。両者が扱う事態はまったく異なるものです。

ある人生を始めるべきではないのだとしても、それを理由として、その人生を続けるべきではない、ということにはなりません。確かにその人生は始まらないほうがよかったかも知れないけれど、一度始まってしまった以上は、その人生を最後まで全うしたいと考えたとしても、論理的には何も矛盾は生じないからです。

人生を続けることが「悪いとは限らない」理由

では、人生を始めることと、人生を続けることが区別できるとして、人生を続けることがそれほど悪いとは限らないのは、なぜなのでしょうか。

ベネターはこう考えます。なぜなら自殺は、自分一人だけではなく、周囲の人を巻き込む問題であるからです。

確かに、「私」が自殺すれば、「私」がこれから被るはずだった苦痛は経験せずに済みます。それは「よい」ことです。しかし、それは同時に、「私」の家族や友達、つまり残された人々に対して、非常に大きな苦痛を与えることになります。その苦痛は、場合によっては、「私」が生き続けることで経験するはずだった苦痛よりも、はるかに大きなものになるかも知れません。その場合、「私」が自殺することで、結果的にこの世界の苦痛は増大することになります。したがって、「私」は自殺するべきではない、と考えることができるのです。

ただし、筆者の考えでは、このロジックには欠点があります。それは、もしも「私」が自殺することで周囲の人が誰も苦痛を被らないなら、自殺を禁止する理由はなくなってしまう、ということです。あるいは――考えたくもないことですが――すべての人が一斉に自殺をするのであれば、そこには残された人が存在しないことになるのですから、やはり自殺を禁止する理由はなくなります。そのとき、人はむしろ積極的に自殺するべきだ、という帰結を免れなくなってしまいます。

これは極めて暴力的な主張であり、到底受け入れられないものです。反出生主義を擁護するのであれば、なぜ自殺するべきではないのか、という点について、ベネターとは別のロジックを立てる必要がありそうです。とはいえ、それを本格的に論じようとすると、さらに煩雑な議論に陥ってしまいますので、ここではそうした問題を指摘するに留めておきましょう。

 

戸谷洋志(とやひろし)
1988年生。関西外国語大学国際英語学部、准教授。ハンス・ヨナスを主要な対象としながら、「技術」と「責任」をキーワードに研究しています。また、未来世代への倫理をより包括的に検討しています。一方で、教育・社会連携活動として、哲学対話・哲学カフェにも携わっています。

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※本記事は戸谷洋志著の書籍『親ガチャの哲学』(新潮社)から一部抜粋・編集しました。

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