「反出生主義」はなぜ求められる? 「親ガチャ」に通じる「生まれてきたことは素晴らしい」説の残酷さ

生まれなければ快楽も苦痛もない

「反出生主義」はなぜ求められる? 「親ガチャ」に通じる「生まれてきたことは素晴らしい」説の残酷さ 親ガチャの哲学

快楽と苦痛の非対称性を、人間の出生の問題に重ね合わせてみると、どのような結論が導き出されるでしょうか。

まず、どんな人間であっても、この世界に生まれてくれば、快楽と苦痛の両方を経験することになります。まったく苦痛のない人生なんて不可能です。もちろん、そのバランスは人によって異なるでしょう。もしも運が悪ければ、とてつもなくひどい苦痛を味わう可能性もあるかも知れません。あるいは、運が良ければ、多くの快楽を享受する人生を送れるかも知れません。

それに対して、もしも人間がこの世界に生まれてこなければ、快楽も苦痛も経験することはできません。生まれてこなければ何も経験できないからです。

さてこのとき、ある人――ここでは「X」と名付けておきます――が生まれてきた世界と、生まれてこなかった世界があるとしましょう。Xのいる世界では、Xは快楽と苦痛を両方とも経験します。それに対して、Xのいない世界では、Xは快楽も苦痛も両方とも経験しません。この二つの世界を比較したとき、どちらのほうが望ましいと言えるのでしょうか。

この問題を考えるために、Xのいる世界と、いない世界とで、どれだけ「よい」ことと「悪い」ことがあるのかを比べていきます。

前述の通り、快楽があることは「よい」ことであり、苦痛があることは「悪い」ことです。したがって、この世界に生まれてくることは、Xにとって「よい」ことであると同時に「悪い」ことである、と言えます――そのどちらが優勢となるかは、Xの人生次第です。

それに対して、Xがいない世界はどうでしょうか。そこには快楽も苦痛もありません。苦痛がないことは「よい」ことであり、それに対して快楽がないことは「悪くない」ことです。したがって、そもそも生まれてこないことは、Xにとって「よい」ことであると同時に「悪くない」ことである、ということになります。

「よい」と「悪い」の差し引きではどちらが優勢?

これらを図にまとめると、次のようになります(図1)。Xが存在する世界を「シナリオA」、存在しない世界を「シナリオB」と呼びます。両者を比較すると、明らかにBのほうが優れていることが分かります。Aの場合、そこにはプラス(「よい」)とマイナス(「悪い」)の要素が含まれていますが、Bには何もマイナスがなく、プラスしかないからです。したがって、このように考えるなら、Xは存在しないほうがよい、ということになります。

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この論証がすごいのは、Xがこの世界に生まれてきて、どんなに素晴らしい人生を送ったとしても、Xが生まれてこないほうがよいという結論が揺るがない、と考える点にあります。

なぜそうなるのでしょうか。それは、生まれてきた以上、Xは必ず苦痛を経験するのであり、そしてその苦痛がないことは絶対的に「よい」からです。生まれてきた人がどんな人生を送るかは、そもそも問題になりません。だからこそ、どんな人間であってもこの世界に生まれてこないほうがよい、とベネターは主張するのです。

これから子どもを作ろうとしているとき、私たちにはその子どもを存在させるか存在させないかを、選択することができます。そのとき、道徳的により望ましい選択は、その子どもを存在させないこと、つまり子どもを生まないことである――ベネターはそう考えるのです。

 

戸谷洋志(とやひろし)
1988年生。関西外国語大学国際英語学部、准教授。ハンス・ヨナスを主要な対象としながら、「技術」と「責任」をキーワードに研究しています。また、未来世代への倫理をより包括的に検討しています。一方で、教育・社会連携活動として、哲学対話・哲学カフェにも携わっています。

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※本記事は戸谷洋志著の書籍『親ガチャの哲学』(新潮社)から一部抜粋・編集しました。

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