かつて出来たことを出来なくなった親に苛立たないためには?/岸見一郎「老後に備えない生き方」

『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「深刻にならない」です。

 

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前の記事「自分でどうにもならないことには深刻にも楽天的にもならない/岸見一郎「老後に備えない生き方」」はこちら。

  

怒らない

さらに、イライラしたり怒ったりしないことも深刻にならないために必要である

『あれは何だ?』(※注:2007年製作)というギリシャで作られた短い映画がある。

父親と息子がベンチにすわっている。突然、二人の前に雀が止まる。

「あれは何だ?」
そうたずねる父親に息子は答えた。

「雀だよ」
父親は何度も同じ問いを繰り返した。苛ついた息子は答えた。

「今いっただろう。雀だって」
同じ問いと答えが何度も繰り返された後で、息子は怒り心頭に発してこういった。

「何度もいったじゃないか、雀だ!!」
父親は何もいわず立ち上がり、家の中に入っていった。戻ってきた父親は古い日記帳を携えていた。父親はその中の一節を読むように息子にいった。

「今日、数日前に三歳になったばかりの息子と公園に出かけ、ベンチに一緒にすわっていた。雀が私たちの前に止まった。息子は『あれは何?』と二十一回私にたずねた。私は『雀だ』と二十一回答えた。私は怒らなかった。息子が何度も何度も同じことをたずねるたびに、私は息子を抱きしめた。私は何も知らない息子を愛おしく感じた」

親の言動に苛立つのは、親がかつてはできたことができなくなったという事実を受け入れることができないからである。子育ての場合は今日できないことでも明日はできるかもしれないという希望があるのに対して、親はこの先よくはならないと思ってしまうという人がいるが、子どもにも親にも「今ここ」しかない。
 
子どもや親と付き合う時に私たちの権内にあるのは、今ここを共に生きることだけである。

 

笑いは喜びの要石

アドラー(※注:アルフレッド・アドラー。1870~1937年。オーストリア出身の精神科医、心理学者)は、怒りは「人と人とを引き離す情動」だといっている。誰も自分に怒りを向ける人を好きにはなれず、怒る人と自分との距離を遠く感じるという意味である。怒る方も自分の思う通りにならない相手と自分の間の距離を遠く感じる。

同じことを何度も問う父親に、怒りをぶつけた息子は父親との間に距離を感じただろう。

他方、アドラーは、喜びは「人と人とを結びつける情動」だといっている(『性格の心理学』)。

父親は息子から怒りをぶつけられても、動じなかった。それどころか息子が幼かった時のことを思い出した。子どもが何度も「あれは何?」と問い、自分がそれに「雀だ」と答えた時の喜びを思い出し、それを「今」感じたのだ。

父親は、かつて息子を愛おしく感じたように、今も息子を近く感じた。

喜びや、その感情に伴って起きる笑いも深刻にならないために必要である。アドラーは、笑いは喜びの要石だといっている。

認知症を患っていた私の父のことを思い出した。次第に感情が希薄になり、一日の大半を寝て過ごすようになった。食事時は必ず起きてくるが、父は家族の輪に入れず、皆が談笑していても、ふと寝ようと思い立ったら何もいわずに寝室に戻った。

少しずついろいろなことができなくなると「この先もうあまり長くはないかもしれない」と絶望的で深刻な気分になることもあった。医師は萎縮した海馬の写真を見せて、この先よくなることはないと告げていたからである。

それでも時折、霧が晴れたかのように、病気になる前の父に戻ることがあった。

父は起きている時には、いつも同じ椅子に腰掛けていた。父がすわっている場所からは庭の木々が見えた。そこには時々、ヒヨドリが椿の花の蜜を求めてやってきた。その度に父は大きな声を出して笑った。

父の喜びを共有する瞬間には、過去も未来も存在しなかった。不意に訪れる幸福は「今ここ」だけのものだった。

父の大きな笑い声を聞くと、その場に居合わせた家族にも父の喜びが伝わってきた。誰かが笑うと喜びはまわりの人に伝染し、笑った人と一つになったように感じる。

 

喜びは困難を克服する

アドラーはさらにこういっている。
「喜びは困難を克服するための正しい方法である」(前掲書)

困難な状況にあれば、深刻になったり、怒りを感じたりすることもあれば、悲しみに打ちひしがれることもある。しかし、これでは問題を解決することはできない。

なぜ喜びが困難を克服するための正しい表現といえるのか。笑いに表現される喜びは人と人とを結びつけるからである。他者と自分が結びついていると感じられる人は、他者に協力することに喜びを感じる。協力は一方的ではなく、自分が困っている時には他者に援助を求めることもできる。笑いは深刻さから脱却することを可能にする。

 

できることから始める

読者からの相談を見てみよう。

「夫が認知症で、いろいろ工夫して暮らしていますが、それでもストレスが溜まり、肝臓の数値が悪いです。人の手を借りるべきでしょうか」

私が父の介護をしていた時は、訪問看護師さんや介護士さんに週何日かきてもらっていた。常は父と二人でいることが多く、父と大きな揉め事があるわけでなくても、気を遣うこともあり疲れを感じることもあった。

看護師さんや介護士さんがこられると、外から風が吹き込んでくるように感じた。そんな時、父も上機嫌になることもあり、私には一度も話したこともない話をするようなこともあった。

父と一緒にいて話を聞いていることもあったが、きてもらっている間は、親から離れて過ごせるので、わずかな時間でも父を任せて外出することもあった。介護者が元気でないと介護は続けられないので気分を変えることは必要である。

ところが、こんなことをすることも自分に許せなくなり深刻になってしまうことがある。介護をしている自分が人の目にどう映っているかが気になるのである。

 

うつ病で会社に行けなくなった人のことを思い出した。

通勤で使っていた車が家に停めてあると会社に行っていないことが近所の人に知られてしまうとその人はいった。しかし、近所の人も、他人が何をしているかをいつも気に留めているはずはないのである。

「せっかく休職してるのだから、この機会に旅行にでも行ってみたら」と勧めたら「会社から電話があるかもしれない」という。

「携帯電話を持って出かけたらいいではないか」「連絡があった時に固定電話で受けられないと自宅で休養していないと思われる」

彼の生真面目さを打ち壊すのは難しかった。私は引き下がらずこういった。

「あなたの休職期間がいよいよ終わろうとする頃になって、ようやく会社はあなたのことを思い出すのだ。今は会社も忙しいので、誰もあなたのことを気に留めてはいない」

もちろん、こんなことをいうといよいよ反発されたが、やがて私のいうことに合点がいくと、携帯電話を片手に旅行に出かけられるようになり、その頃には症状はかなりよくなった。

世間の人はそれほど自分のしていることを気にかけているわけではない。介護をするときも、人がどう思うかではなく、自分がどうしたいかということを考えていいのである。

「息子が手術を受けました。手術は成功したのですが、働き盛りで子ども二人はまだ小学生なので今後が心配です。日常生活で特に気をつけることを親として何ができるのか知りたいです」

特に病後だからということを気にかけずに、手術が成功したのだから、将来のことを格別に不安に思わず、術前と同じように接することが今できることである。

「癌の一回目の再発から七年。再発するかもしれないと思うとビクビクします。頑張って元の仕事に戻って稼ぐと、趣味の時間がなくなり、頑張る意味が取り戻せません」

私は十二年前に心筋梗塞で倒れ、冠動脈のバイパス手術を受けた。十年後には再手術が必要だといわれた。幸い、今のところ、体調はわりあいよく、医師からも再手術の話は出ない。

振り返ると、「十年後」という医師の言葉に囚われすぎていたように思う。再発するのかしないのか、するとすればいつなのかは権内(力の及ぶ範囲内)にはないのである。今は手術のことは考えないで、毎日できることをしている。

生活のことがあるのでしたい、したくないということだけを基準に仕事はできないが、それでも人は働くために生きているのではない。仕事をすることも含め、生きる喜びを日々感じられるかを主眼に仕事をするかしないか、どれくらいするかを決めればいい。

「春に体調を崩し、食欲が減り、何となく下り坂の様子の母。そんな姿をなかなか私自身が受け入れられず、いつまでも元気でいてくれるとの思いで、現状と葛藤しています。どのように心を切り替えていったらいいでしょう」

子どもとしてできることは理想の親を見ないで現状の親だけを見ること。これからのことを考えず、今日共に過ごせる喜びだけを感じてほしい。

病者の立場からいえば、どんな自分であっても受け入れてもらえるのがありがたい。

 

※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年1月号に掲載の情報です。

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