「終活に入るから」と、年賀状を出さない知らせが届くことに違和感/岸見一郎「老後に備えない生き方」

『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「持てないものを手放そう」です。

「終活に入るから」と、年賀状を出さない知らせが届くことに違和感/岸見一郎「老後に備えない生き方」 pixta_30193360_S.jpg前の記事「不要なものを整理したいが捨てがたく、捨てる決断ができない/岸見一郎「老後に備えない生き方」(1)」はこちら。

 

人間関係の整理はできるか

人間関係についてはどう考えればいいだろうか。

日本語や古代ギリシア語では、「私には子どもがいる」といういい方をする。子どもは親が「持つ」ものではなく、親との関係の中に「ある」という意味である。子どもは親と無関係に生きているのではなく、親との関係の中にある。

当然、親は子どもの身に降りかかることに無関心ではいられないので、子どもと共に喜び、悲しむ。しかし、それは子どもが親の期待を満たさなければならないということではない。

子どもは幼い時は親から援助されなければ生きていくことはできなかったので、親やまわりの大人が自分に何をしてくれるかばかりを考えていた。子どもがこのように考えるのも無理はないが、やがて何でも自力でできるようになっても、いつまでも他者に頼って生き、その他者が自分の期待を満たすために生きていると考える人がいる。

そのような人が、他者が自分の期待を満たすために生きているのではないことをいつ知るかといえば、誰かを愛し始めた時である。この人のために、私は何ができるかと考え始めるのである。

そのように考えられるようになれば、誰かを自分の手段にすることはない。フロムは次のようにいっている。
「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう気遣うことである」(『愛するということ』)

相手を自分のために変えようとするのではなく、その人らしくあることを気遣うというのは、花についていえば、花を愛でるために手折って家に持ち帰ろうとは思わず、咲いている場所で咲くのをただ見ることである。

 

読者からの相談を見てみよう。
「年賀状によく、今回限りで終活に入りますので、以後年賀状は出しませんと書いてありますが、これはいかがなものでしょう」

終活に入るからと、今後年賀状を出さないという知らせが届いた時に違和感があるとすれば、ちょうど「机の上やまわりに乱雑に置かれた本や書類や文房具などを整頓してきれいに並べる」ように、終活を理由にその人との関係が一方的に切られたような気になるからだろう。

年賀状を出す人があまり多くないのであれば、終活に入るという一般的な理由ではなく、もう少し具体的な理由が書いてあれば納得がいくかもしれない。

人間関係については、ものの場合と違って、自然に消滅するのを待つのがおそらく望ましいのだろう。

「小学校の時、とても貧乏でした。同窓会の案内葉書が届くと嫌な思い出が蘇ってきます。仲良く遊んだ友達もいますし、今さら昔のことにこだわってもと思いますが、嫌なことが拭いきれません」

近年、私は同窓会に行くことが多くなった。残念なのは、卒業以来一度も会っていないクラスメートがいるということ。同窓会の案内葉書も出さないでほしいと欠席の印の横に書いてあったということを知り、一体、何があったのだろうと気を揉まないわけにはいかない。

昔は昔、今は今だから同窓会に行くのがいいと勧めようとは思わないが、仲良く遊んだ友達がいたことこそ思い出してほしい。

 

※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2018年12月号に掲載の情報です。
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