自分の考えに従わせようとする親に、つい冷たい態度をとってしまう/岸見一郎「老後に備えない生き方」

『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「よい意図を見つけよう」です。

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人は変われるのか

はたして、人は変われるか変われないかといえば変われる。ただし、簡単に変われないというのも本当である。

正確にいえば、変われないのではなく変わりたくないのである。なぜ変わりたくないのか。変わると次の瞬間何が起こるかわからないからである。

読者の相談を見てみよう。
「私たちを育ててくれた親は昭和の時代に懸命に生き、未だにそのことが心に沁みつき何かと自分の考えに従わせようとします。時代にそぐわないので、ついつい冷たい態度になるのですがどうしたらいいでしょうか」

親に対して「ついつい冷たい態度になる」というのがこの方の親への馴染みの対応の仕方である。何か事あるたびに、親がいっていることは時代にそぐわない、今はもう昭和ではないと親に反発してきたのだろう。親は子どもの態度を見て、いよいよ子どもを変えようとするだろう。こんな態度を取るようでは私の教育が間違っていたと思って、子どもを矯正しようとする。

親がいっていることは時代にそぐわないと反発するというような冷たい態度を取るのではなく、いろいろと助言してくれることをありがたいといい、その上で親のいう通りにしなければいいのである。

親を変えることはできない。変えることができるのは自分だけである。これまで冷たい態度を取っても親が変わらなかったのであれば、違うことをしてみる価値はある。

もちろん、どうすればいいかを知らなければ、これまでと同じことをするしかない。私ならこんな助言をするだろう。

「私たちはもう子どもではないのだから、そんなふうに心配してくれなくてもいいからね」と明るく笑って答えようとか、「いろいろと助言してくれてありがとう」といおうといったことである。「ありがとう」とはいっても、親のいう通りにするかしないかは自分が決めなければならない。

親の考えには従わないといえば、親の態度はいよいよ硬化するかもしれないが、必ずそうなるとは限らない。少なくとも、自分の考えを親に伝えることはでき、そのことが親子関係のあり方を変えるきっかけになるかもしれない。

自分の考えを主張しなければ摩擦は起きないかもしれないが、自分の考えが伝わらないと長い目で見ると対人関係をよくはしない。

そもそも親は自分の考えに従わせようとしていることを意識していなかったかもしれず、親として当然のことをしていると思っているので、そのことを子どもが嬉しく思っていないとは考えたこともないかもしれないのである。

 

私の助言に対して、「わかりました」と答える人も、次の瞬間こういう。
「でも...」
そういって、できない理由を山のように話す。
「でも」といったら、する、しないが拮抗(きっこう)しているのではなく、しない、変わらないでおこうと決心をしているのである。

このようなことをいう人は自分を変えられないのではなく、変えたくないのである。これまでとは違うことをすれば何が起こるかわからないので、今の自分がしていることが不自由で不便であっても変えようとはしない。

自分を変えればそれに伴ってまわりの人も変わるかもしれない。その変化は慣れないことなのでとまどうかもしれないが、悪い変化であるわけではない。一度もしたことがないことはできないが、一度でもできればできるようになる。最初の少しの勇気は必要である。

 

「姑(しゅうとめ)は普段はいい人なのですが、自分が受けた仕打ちを思い出しては愚痴り出すので、その都度暗い気分になります。上手にかわす方法や、やめさせる方法があれば知りたいです」

「その話は聞きたくない」といえばいい。そうすることがためらわれるのなら、「他の話をしてほしい」というしかない。このようなことをいえる自分になるには勇気がいるだろうが、この勇気が二人の関係を変え、そのことはどちらにとっても望ましいことに違いない。

いつか父と口論になりかけたことがあったが、私が「今の言い方は上から下にいわれたような気がしていやだった」というと、父は「たしかにそのような言い方だった」と謝ってくれた。父は私がこのようにいう前は、対人関係の上下について考えたこともなかっただろう。

その後、父は私がそれまで聞いたことがなかった、結婚して間もない頃の父と母の苦労話をしみじみと話し出した。

まず自分が変わるしかない。相手を変えようとする人は、自分は変わらないでおこうと思っている。少なくとも、相手が変わるまでは自分は変わらないでおこうと思っている。

前回、よい親子関係であるための条件をあげたが、このうち尊敬と信頼については、自分が先に相手を尊敬し、信頼するということである。相手を尊敬し信頼しても、相手が自分を尊敬、信頼してくれるかはわからないが、私が先にこの人を尊敬し、信頼しようと決心することが、関係をよくするための出発点である。相手が先に変わることを期待している間は何も起こらない。

 

よい意図があると信じる

何を信頼するかといえば、相手が自分の課題を自力で解決する力があると信じること、それも無条件で信じることだと前回書いたが、実はもう一つある。

相手の言動に「よい意図」があると信じるということである。表面的な言動には悪意があるように見えても、実はよい意図があると信じることができなければ対人関係はよくならない。

私の母は早くに亡くなった。父と二人で暮らすことになったが、父も私もそれまで料理をしたことがなかったので、最初の頃は、外食ばかりしていた。父がある日、「誰かが作らないといけない」と言い出した。誰かといっても自分は作るつもりはなかった。

私は、「お前が作れ」という意味だろうと思い本屋に行って、何冊かの料理の本を買い込んだ。その中に、「男の料理」という本があったが、これは少しも役に立たなかった。レシピを見ながら一生懸命作っていたら、これから二日間煮込むと書いてあったのである。

ある日、その本を見て、カレーライスを作った。そのレシピには、小麦粉と玉ねぎを弱火で炒めると書いてあったので、書いてある通り、三時間かけて絶対焦がさないようにして作った。

ちょうどカレーができた時に帰ってきた父が、そのカレーライスを一口、口にしていった。「もう作るなよ」と。

十年ぐらい経った時、父の言葉の真意が突然わかった。私は父は私の作ったカレーがまずいので「もう作るなよ」といったと思っていたが、そうではなかった。

母が亡くなったのは、私が大学院に入った年だった。父はこういいたかったに違いないとその時わかった。「おまえは学生だろう。だったら勉強しないといけない。だから、これからはこんな手の込んだ料理はもう作るなよ」。そういう意味であることがわかるのに十年もかかったのである。

父は言葉少なに「もう作るなよ」といったのだが、そういう言葉にもよい意図があると見なければいけない。自分は他の人が誤解することがないように言葉を尽くして説明しないといけないが、他の人が言葉少なく傷つけられるようなことをいっても、きっとそこにはよい意図があるのではないかと見れば、対人関係はよくなる。

 

※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2018年11月号に掲載の情報です。
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