病気であることもマイナスであるわけではない/岸見一郎「老後に備えない生き方」

病気であることもマイナスであるわけではない/岸見一郎「老後に備えない生き方」 pixta_36093147_S.jpg『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回はその13回目を掲載します。テーマは「変化を恐れない」。

前の記事「万物は流転する。変化をどう受け止めるかが大切/岸見一郎「老後に備えない生き方」」はこちら。

 

身体の声

以上見てきたように、老いも病気もただ変化するだけであって、それによい、悪いという意味づけをしなければ、老いも病気も恐るるに足らないものになるだろう。だからといって身体のことを気にかけなくていいということにはならない。

私の父は若い頃から体の不調を訴えよく医者にかかっていたが、いつも元気だった母は四十九歳で脳梗塞で倒れた。しかし突然、病気になったように見えても、実は前駆症状があったのである。時折激しい頭痛のために寝込むことがあった。それでも、これは更年期障害だといい張り、医者にかかろうとはしなかった。病気と無縁に生きてきたと思っていても、実際には気づいていなかったからか、あるいは、気づいても大きな病気の前兆であることを認めようとしないことはある。病気になるずっと前から身体が語りかけていたはずの言葉に耳を傾けてこなかったのである。

早くにその声に気づけばいいようなものだが、問題は、その呼びかけに気づくのは必ず遅れるということである。気づくのが遅れることには二つの理由がある。

一つは、呼びかけよりも「先に」身体の声に気づくことはありえないからである。ふと誰かの視線を感じて目を挙げた時に目が合うと恥ずかしい思いがするが、目が合ったのは実は相手が先に自分を見ていたからであるように、身体からの呼びかけに気づいた時には身体は既に病気の状態にあったのである。身体はずっと前から声をかけていたのに気づかなかったのである。

この遅れが致命的になることがある。その例を作家の澁澤龍彦(しぶさわたつひこ)のケースに見ることができる。
澁澤は『高丘(たかおか)親王航海記』で、登場人物の藤原薬子(くすこ)に自らの死を予言するような言葉を語らせている。
「未来をうつすわたしのこころの鏡は、わたしの死が近いことを告げているのです」

澁澤は、これを書いている頃から喉の痛みを訴えていた。高丘親王が湖を船で渡っていた時、ふと親王が、船端に首を伸ばし、鏡のように澄んだ水面をのぞき見ると、自分の顔だけが映っていなかった。親王は随行者の言葉を思い出した。
「蒙(もう)のいうところによれば、湖水に顔のうつらぬものは、一年以内に死ぬという。迷信だとは思いながら、親王はどきりとした」

この小説は澁澤が亡くなる前年の夏に書かれた。この時、澁澤が強い死の予感を持っていたかはわからないが、高丘親王には「あくまでも漠然とした予感」を語らせている。親王も、澁澤自身と同じく、最初は喉の異物感を訴えている。もしも何らかの意味や程度において死にゆく親王に自分自身を重ねていなければ、澁澤は『高丘親王航海記』を書くことはなかっただろう。

人が身体の警告に耳を貸さない場合でも、身体は本人の自覚しないうちに死の影を忍ばせ、それと知らずに身体の言葉を語ることがある。その意味は、後にその人の言葉を思い出した時に明らかになる。

このように身体の声を聞くことは遅れるので、病気に気づくことが遅れたからといって、自分を責める必要はないが、できるものならば早く気づきたい。過敏に、あるいは、強迫的に病気になることを恐れる必要はないが、いつでも病気になりうると、身体の声に耳を傾ける用意をしていれば、気づきは早くなるだろう。

気づくのが遅れるもう一つは、身体からの呼びかけに気づきたくないからである。なぜ、気づきたくないのか。死に至る病かもしれないと思うからである。そこで、私の母が頭痛を更年期症状だと見なしたように無害な解釈にすり替え、医者にかかろうとしない。また、自分の老いや病気に気づくことは自分の衰えを認めることであり、そのことは敗北だと考えるからである。老いること、病気になることは変化ではあるが、プラスからマイナスになるのではないのだから、耳を塞がなくてもよい。

親の老いや病気についても同じである。子どもは親はいつまでも若くて元気なのだと思いたい。老いや病気を親の衰えだと思って受け入れようとしなければ、親の病気に気づくことが遅れる。
 

 

読者からの相談を見よう。

「現在、卵巣癌手術後、抗がん剤治療中です。自分が病気になり、人の痛みがわかるようになったことはよかったと思っています。寿命のある限り、前向きに生きていこうと思っています」

病気になってよかったとは他の人にはいえないし、いってはいけないが、自分の病気についてならいえる。病気になって弱ると、元気な時には難しかった他者への共感ができるようになる。先の話の言葉でいえば、病気になって弱るのはマイナスではない。病気をきっかけに自分の弱さを実感できるようになって人の痛みがわかるようになるのなら、弱さはむしろプラスである。

「それなりの年、経験で少しずつ諦めることを覚え、欲張らず生きています。楽しいですよ」

歳を重ねるとできなくなることは増えるが、それもマイナスではない。できることとできないことを「明らかに見る」ことが「あきらめ」である。

「人間関係で悩んでいます。最近まで普通に話もできていたのですが、ある日から私を無視するようになりました。何が原因なのか、私の何が気に入らないのか、何がいけなかったのかと悩み、自分を責めました。悩んでいても仕方ないので、私も無視しようと決めました。これからは何事にも動じない、大きな人間になろうと思います」

「昨年から今年にかけて、親しくしていた方たちから連絡がなくなりました。こちらからメールをしても返信がありません。一体、どんな失礼なことをしてしまったかと落ち込みます。今お付き合いしている方たちともいつかこんなふうになるのかと思うと不安で心配です」

身体だけではなく、対人関係も変化していく。人が離れていく時に理由はない。ただ離れていっただけで、何か自分に原因があったのかと思い煩っても去った人は戻ってこない。今付き合っている人との関係を大切にしたい。

「この先何が起こるかわかりません。くよくよ悩んでいても仕方がない。明日は明日の風が吹くとのんきな気でいますが、やはり健康のことが一番心配です」

健康のことは心配だが、自分ではどうにもならないことなので、これからのことを気にして今の楽しみをふいにしないことが大切である。

 

※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

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岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2018年8月号に掲載の情報です。

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