なぜ嫌われているのかわからない。心が乱されるのでなんとかしたいのだが/岸見一郎「老後に備えない生き方」

『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「よい意図を見つけよう」です。

pixta_11719578_S.jpg前の記事「自分の考えに従わせようとする親につい冷たい態度をとってしまう/岸見一郎「老後に備えない生き方」」はこちら。

 

関係をよくするために

読者からの相談を見よう。

「私は二十数年仲良くしていた友達からある日突然何もいわずに無視されました。悩みに悩んで二年後、本を読んで『人は人、自分は自分』という言葉を知り、はっとしました。今は完全に無視して生活しています。今の方が楽しい生活です」

京都の哲学の道に、哲学者、西田幾多郎(きたろう)の歌碑がある。
「人は人 吾われはわれ也 とにかくに吾行く道を吾は行なり」

西田は後に京都大学の教授になり、西田哲学と呼ばれる独創的な哲学体系を構築し、今日その名を知らない人はいないといっていい哲学者だが、「人生の落伍者になったように感じた」と後に述懐しているほど若い頃は悩みも深かった。

しかし、「人は人 吾はわれ」と考え、他の人とは違う自分自身の道を生きる決心をしたのである。

生きていると、このような決断をしなければならないことはある。

 
「よい友人だと思っていた人が支配的に振る舞うようになり、会わないようにしたが気になる。早く忘れたい」

人は変わるものなので、行動が変わることはありうる。しかも、なぜ変わったのかわからないことは多い。関係を修復する努力をする甲斐があるかどうかはケースバイケースとしかいえない。

会わないようにするというのは一つの方法だが、大事なことはとらわれないということである。忘れようと思うことがかえってとらわれになることがある。

雲一つない天気のいい日、夫が朝出かける時、妻から「今日は雨が降るかもしれないから傘を持って行きなさい」といわれた。夫はこんないい天気なのだから、雨など降るものかと振り切って出かけたが、夫はその日家に帰るまで何度も空を見上げた。それがとらわれである。

忘れたい、忘れなければ、忘れようと思わないで、自然に任せるといい。

 

「そんなつもりでいったわけではないのに、親しい人との関係がこじれてしまいました。涙を浮かべ『そんな人だと思わなかった』といわれ無視されるようになりました。どうしていいかわからないまま時間が過ぎています」

意図的に人を傷つけることは論外で、人を故意に傷つけていいはずはない。しかし、それにもかかわらず、心ならずも誰かを傷つけてしまうことはある。

そんな時、自分の知らないところで「あの人はひどい人よ」などと断罪されるのが一番辛い。できるものならせめて、なぜ自分から離れていこうとするのか理由を知りたい。それも知ることができないまま相手が離れていけば弁明をすることもできない。

このケースでは、何もいわずに無視されるようになったのではない。「そんな人だと思わなかった」といわれたからである。涙を浮かべてそういわれたということは、それまでの関係がよかったからであり、だからこそ信じられないという思いがあったのだろう。

可能なら今からでもその人が自分のことをどう思ったのかたずねられたらと思う。しかし、他方、人が離れていくことの理由は、その人自身も気がついていないことがあることも知っておきたい。離れていくことの原因がいつも必ず自分であると考えない方がいい。

 

「嫌われることを恐れてはいませんが、なぜ嫌われているのかどう考えてもわからないのに、敬遠されると心が乱されます。気にしないで平穏に暮らしたいのですがそうもできない。近い関係、切り離せない関係なら何とかしたいと思ってしまいます」

たしかに、近い関係にある人から理由もわからないまま敬遠されるというようなことがあれば、友人が離れていく時とは違って、そのままにしておくことはできない。

できるものなら理由を聞いてみたいが、敬遠されるだけで面と向かって非難されないというのなら、近い関係でもそのような関係のまま暮らし続けることもできないわけではない。

対人関係は、その関係の近さと持続性の点で、仕事の関係、友人関係、愛の関係の順で難しくなる。愛の関係というのは耳慣れぬ表現だが、パートナーとの関係、家族との関係のことである。親子関係はこの愛の関係に入る。親子関係それも実の親との関係が一番難しい。

近い関係においては、自分が感じていることを相手もまた感じている。心が乱れるのは相手も同じである。

 

「先般、義姉ががんで亡くなりました。兄になぜ知らせてくれなかったのかと責めましたが、後で考えると誰が不幸な話をするでしょうか。日々もっと親しい付き合いをしていれば知りえたことなのですから、自分本位な考え方に情けなく、兄に申し訳ないことをいってしまったと今は後悔しています」

親族が亡くなった時は、日頃どんなに疎遠でも必ず知らせなければならないと考える人がある一方で、疎遠な人には葬儀にきてもらうのが大変だからと知らせない人もいる。これが先にいった「よい意図」である。

本人が生前に自分の死を知らせないでほしいと希望することもある。自分だったらこうするのにと自分の尺度で人の言動を解釈しないで、何かわけがあるのかもしれないと考えるといい。

 

「五十二年も苦楽を共にした夫が亡くなる前に、鬼のような形相で私を見たので驚いた。モルヒネを投与されていたが、あの目を思い出すと悲しくなります」

人の人生を最後からだけ見ないことは大切だ。誰もが穏やかに死ねるわけではない。間近に迫った死を思うと不安にもなる。心ならずもそのような表情をされたのだと思う。五十二年の二人の人生を振り返り、よい思い出をたくさん思い出してほしい。

 

「自分が相手に対して精一杯やったにもかかわらず、何年も経ってから、『あの時、このようにしてくれなかったのに』といわれたが、では、どうしてその時に『こうしてほしい』といってくれず、今になって文句をいうのかと悲しい気持ちでいっぱいです」

他の人のことは誤解しないように努めたいが、自分のよい意図は残念ながら誤解されることがある。ほとんど不可抗力だといっていいくらいである。

このケースでは、どうしてその時にこうしてほしいといわなかったのかと思わないで、「今」、説明することに注力した方がいいと思う。

よい意図があると信じると書くと、悪意に満ちた言動にすらよい意図を無理やり見出すという意味に取る人があるかもしれないが、そうではなく、この人と仲良く生きていこうと思った時に見えてくるものである。しかし、最初は意識して見つけることも必要なこともある。近い関係の人であれば、その人の言動を見直してみる価値はある。

 

※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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この記事は『毎日が発見』2018年11月号に掲載の情報です。
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