「自分でどうにもならないこと」には深刻にも楽天的にもならない/岸見一郎「老後に備えない生き方」

『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「深刻にならない」です。

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真剣と深刻は違う

講演会の後の質疑応答で、座右の銘は何かとたずねられたことがあった。座右の銘というようなものを考えたことは一度もなかったので困ってしまったが、時折、本にサインを求められた時に書くことがある「今ここを真剣に生きる」という言葉を思い出し、それを私の座右の銘として紹介した。

この言葉の中の「今ここを生きる」ということについては、この連載でも見てきた。あの時、こうしたらよかったと後悔することは多々あっても、今となっては過去に戻れない以上、後悔しない。他方、これからのことを考えると不安になるが、今はきていない未来のことを思い煩うことなく、「今ここ」を生きよう。これが「今ここを生きる」ということの意味だが、「真剣に生きる」というのはどういう意味か少し説明が必要かもしれない。

私は「真剣」を「深刻」と区別して使っている。

立て続けにいろいろな問題が起きると深刻になってしまうのも無理はないが、深刻になっても少しも問題の解決にはつながらない。もうどうにもならないと思い悩んでみたところで甲斐はない。真剣に問題の解決に取り組まなければならない。

キリスト教思想家である内村鑑三が、イギリスの歴史家カーライル(※注:トーマス・カーライル。1795~1881年。歴史家、評論家)の次のような話を『後世への最大遺物』という本の中で引いている。

カーライルは、何十年もかけて『フランス革命史』という本を書き上げた。その原稿を友人が借りて家に持ち帰って明け方まで一生懸命読んでいたが、次の日の仕事に障りがあると思い、原稿を机の上にそのまま放りっ放しにして寝てしまった。

翌朝、彼が起きないうちに下女がやってきて、主人が起きる前にストーブに火をたきつけようと思い、何かよい反故はないかと思って探したところ、机の上に広げてあった原稿の束が目に留まった。彼女はそれをすべて丸めてストーブの中へ投げ入れ火をつけて焼いてしまった。かくて、ほんの数分の間にカーライルが何十年もかけて書き上げた『フランス革命史』は煙となった。

カーライルは十日ばかりぼんやりとして何もしなかった。腹も立てた。

しかし、我に返ってこう自分に語りかけた。

「トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない、第一に貴いのは汝がこの艱難(かんなん)に忍んでそうしてふたたび筆を執ってそれを書き直すことである、それが汝の本当にエライところである、実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにモウ一度書き直せ」(『後世への最大遺物』)

そういって自分で自分を鼓舞し、再び勇気を起こして筆を執って本を書き上げたのである。こうして彼は後世へ遺物を残したのである。

失ったものは取り戻すことはできない。深刻になって何もしないで呆然と過ごすのではなく、真剣に問題解決に向けて動き出さなければならない。

 

権内(けんない)にあることとないこと

それでは、どうすれば深刻であることから脱することができるだろう。

古代ローマの哲学者であるエピクテトス(※注:50年ごろ~135年ごろ)が、次のようにいっている。

「自分の権内にないことにはついては、忍従の他はない」(『語録』)

あまり使わない言葉だが「権内」というのは「力の及ぶ範囲内」という意味である。権内にないというのは、自分ではどうすることもできないということである。

深刻にならないためには、まず自分ができることとできないことを見極めなければならない。

エピクテトスは「忍従の他はない」といっているが、自分が置かれている境遇や運命にただひたすら耐えるしかないという意味で解釈するのであれば間違いだと私は思う。むしろ、いかなる逆境にあっても動じない精神の強さを持たなければならないと説いているのだろうが、ただ「強くあれ」といわれてもそれだけでは苦しみに押し潰されることになるかもしれない。

たしかに、権内にないことは多々ある。自分や家族がいつ何時病気で倒れるかはわからない。健康に無頓着ではなく、日頃から節制し、運動に励んでいても病気になる時はなる。

結婚相手は自分で選べても、親や親戚は選べないので対人関係の揉め事も避けることは難しいが、権内にないことではない。どう関わっていけばいいかを学べば関係は変えられる。

 

何とかなると思わない

深刻にならないために次にできることは、楽天的にならないということである。

自分や家族が病気で入院している時に、見舞いにきた親戚や友人が思慮なく、根拠なく「すぐによくなるから」などと病者の回復を断言することがある。オランダの病理学者であるヴァン・デン・ベルク(※注:1914~2012年)は「病気の早期回復を支持する議論で患者に有無をいわせない」といっている(『病床の心理学』)。

もちろん、このようなことをいう人に悪意があるわけではないだろうが、病者が置かれている状況を十分理解しないままに発せられる言葉を聞いても嬉しくはない。

病気でなくても、自分や家族が今ある苦境について何とかなると楽天的になるのは、本当のことに目をつぶろうとする恐怖心の裏返しである。

受診し必要があれば然るべき治療を受けることが真剣に病気に向き合うことである。

 

※この他の「老後に備えない生き方」はこちら。

 

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年1月号に掲載の情報です。

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