『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「後世に勇気を残そう」です。
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嫌われる勇気をください
『嫌われる勇気』が出版されてまもない頃、ある人が店頭に本がなかったのでレジで店員さんにこういった。
「嫌われる勇気をください」
当時はまだ「嫌われる勇気」が書名であることは知られていなかったので、レジに並んでいた人が驚いてその人の顔を見たという。
読者からの質問には次のようにある。
「人に好かれるように嫌われないようにといわれて育ってきたので、嫌われる勇気には驚きです」
「生きている間は誰しも嫌われることなく生きたいと願います。でもなかなかそのようにならないのも世の常です」
できるものなら、人から嫌われたくはない。嫌われる勇気を持つというのは「嫌われなさい」という意味ではなく、嫌われることを恐れるなという意味である。
ある時、息子が私にこういった。
「君はそんなに人から嫌われることが怖いのか」と。
息子は嫌われることを恐れていなかったということである。他方、私は嫌われることを恐れていたのであり、それどころか人からよく思われたいと願っていたことに気づいた。どうすればいいのか。
主張しよう
「今まで他人との摩擦を避けたいのでいいたいことをいわずにやってきたように思います。嫌われる勇気はこの年齢だからこそ必要だと思いました」
「自分さえ考えを主張することをセーブすれば万事が丸く収まると常に考えて行動してきました」
たしかに、いいたいことがあってもそれをいわなければ、他人との摩擦を避けることができ、そうすることで万事が丸く収まるように見える。しかし、
「誰からも好かれたいと思い、自分を殺していいたいこともいわずにきたら『何を考えているかわからない人』になってしまっているようです。学校時代から『人に流されてはダメ!』といつも通知表に書かれていました」
いいたいことをいわなければ「いい人」にはなれるが、「何を考えているかわからない人」になる。
何を考えているかわからない人は距離を置かれることになる。主張しないことは長い目で見ると対人関係を悪くする。
また、相手が何をいっても賛成していると、好かれるどころか、やがて信頼を失う。自分では何も決められない人だと思われるからである。
「いいたいことをいった後で『あんなこといわなければよかった』と思うのだったら最初から心の中に秘めればいいこと。毎日を楽しく充実して生きるためには、人を立てて自分も立てて仲良く協調して平和に生きるのが私の宗旨です」
何をいってもしても後悔するものだ。それなら、後悔しないため心の中に秘めればいいかといえばそうともいえない。
私がカウンセリングなどで会ってきた若い人たちは皆、親に逆らわない、いい人ばかりだといっても過言ではない。親だから私のためを思っていってくれているに違いない。そう信じて疑わない若い人は親が理不尽なことをいっても反抗してこなかった。
何の疑問も抱かず、あるいは、いいたいことがあってもいわずに、親の考えに従っていれば表面的には何の問題もないよい親子に見える。しかし、私はこのような関係は一度は壊すべきだと考えている。
これは喧嘩をせよというような意味ではない。表面的にはよい親子の結びつきを真の結びつきにするためには、一時的な緊張や諍いさかいを恐れず、子どもは親に、親も子どもに自分の思いを伝えることを避けてはいけないと思う。
親子が真に結びつくためには、主張しなければならない。子どもが親に理想的に従順であることをやめることが、親子関係を最終的によくする第一歩である。
「[主張することは]利己主義とは違うんですよね。相手のことを思い、いいたいことをやめてしまう私。私が正しいと思うことは相手には不快。何日か考えてやっぱりいおうと勇気を振り絞っていってみた。相手(主人)は腹を立て会話をしない。機嫌がよくなるまで放っておいたが、その間(半日くらい)の空気の悪さ。でもいってよかったと思いました」
主張すれば何かしらの摩擦は生じるが、主張することは利己主義ではない。反対に、相手からよく思われないことを恐れて、いいたいこと、いわなければならないことをいわないことこそ利己主義である。
そのような人は相手が自分がいうことをどう受け止めるかを考えるという意味では相手のことを思っているといえるが、必要なことなのにいわないのであれば、相手ではなく自分のことを考えていることになる。
相手のことを思い、相手のためにいわなければならない時がある。それをはっきりというためには勇気がいる。
ただし、「あなたのためを思って」といういい方をすると、嫌がられることがある。本当は相手のためではなく、自分のためにいっていることは往往にしてあるからである。
親が子どもの人生の行く手を遮(さえぎ)ることがある。親から見れば無謀にしか見えないことをしようとしたら親はそれを止めようとする。親は「あなたのためを思って」というが、自分の世間体を気にしているだけである。
また、相手との関係がよくなければ、正しいことであればあるほど、いよいよ相手はそれを受け入れようとはしないだろう。
いい方の問題もある。いうべきことは感情的にならずに冷静に言葉できちんと伝えなければならないが、攻撃的になったり、復讐的になったりすると相手は抵抗する。
攻撃的になるというのは、大きな声を出すなどして感情的になって相手を恐れさせることで自分の主張を受け入れさせようとすることである。例えば、夕食後に犬の散歩をパートナーにしてもらいたい時に、億劫がるパートナーに「あなただってこれくらいのことをしてくれてもいいじゃないの」というふうに声を荒らげて主張し、それを受け入れさせるようなことである。
復讐的になるというのは、主張は引っ込めるが、引き際に相手を傷つけることである。犬を散歩させてほしいという主張は引っ込めるが、「その代わり、今日は晩酌はありませんからね」というようなことをいうのである。
攻撃的でも復讐的でもない仕方で自分の考えを伝えなければならない。具体的にいえば、お願いをすることである。
お願いの仕方は二通りある。
一つは、「~してくれませんか」というふうに、疑問文を使うことである。もう一つは、仮定文を使うことである。「~してくれると助かるのだけど」というふうにである。
命令してはいけない。いずれも、相手に「いや」といえる余地を残してお願いすれば、わりあい聞いてもらえる。相手が断れば、自分でするしかない。
冷静に話してもなお腹を立てたというのであれば、その感情は相手が自分で何とかするしかないが、コミュニケーションの仕方に改善の余地があるのなら、してほしいこと、してほしくないことを言葉で丁寧に伝える努力をしてほしい。
「人からどう思われるかと思った時にためらうような気がします」
ためらうのは、先に見たように、自分の言動が他の人にどう受け止められるかを意識しているからである。
しかし、ためらってばかりいるというべきことをいえなくなる。また、自分の考えを人に伝える時だけでなく、他者の援助を必要とする時に、こんなことを頼んだらどう思われるかを気にかけてしまい、必要な援助を受けないことがあれば問題だろう。
頼んでも皆が断るということはない。かつて私は大きな手術を受けたことがあって、退院後、満員電車に乗った時には苦しくて席を代わってほしいと思ったことが何度もあった。見た目にはどこも悪くないので、「代わってほしい」といえばどう思われるだろうかと考えてためらったが、苦しくなるのは自分なので援助を申し出た。
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岸見一郎(きしみ・いちろう)さん
1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。