娘に腎臓提供するのは親として「当然」のことなのか?/岸見一郎「老後に備えない生き方」

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『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回はその10回目を掲載します。テーマは「人に頼ろう」。

◇◇◇

課題の分離から協力へ

前回、課題の分離について考えた。あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、あるいは、最終的な責任を誰が引き受けなければならないかを考えた時に、そのあることが誰の「課題」かわかる。
 
このようなことは誰も通常は考えないので、本来相手が自分で解決しなければならず、実施できることに手出し、口出しをすることが対人関係のトラブルを招くことになるとは思っていない。
 
もちろん、自分では手出し、口出しをしているとは思っていない。善意から助言し力になれると思っているので、相手から援助(と思っているということだが)の申し出を拒まれるとそのことを不愉快に感じる人がいる。
 
親であれば、実際には自分の体面を保つためでしかない時でも、「あなたのためを思っているのよ」という。このような時、介入された側は断固断るべきだと前回書いたが、他人なら簡単に断れても、相手が親だとその気持ちを無下に断れないと思う人はいるだろう。
 
対人関係のトラブルは人の課題に土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こるので、シンプルに考えるならば、他者の課題には一切手出し、口出ししなければいいわけだが、話はそんなに簡単ではない。

何でも自力でできるのならいいが、他者からの援助が必要なことがある。若い頃とは違って歳を重ね、病気になると、できないことが増えてくる。 

そうなると、自分の課題なので自分でするといってみたところで何でも自力でできるわけではないので、援助を求めないわけにはいかない。

また、例えば、延命治療をどうするのかというようなことについては、本来、自分で決めていいことだが、家族の意向を聞かずに一存で決めることは難しい。
このような時、本当は必要なのに援助を求めようとしないことがある。なぜ、援助を求めようと思わないのかを読者からの相談を取り上げながら考えてみたい。

 

援助を求めること

長年カウンセリングなどで多くの人と接してきて私が感じたのは、人に援助を求めるのが苦手な人が多いということである。頼まれもしないのに人の課題に踏み込むのは問題だが、本当に援助が必要な人が援助を求めようとしないことも大きな問題である。

私がカウンセリングをしてきた経験からいえば、男性が相談にくることはあまりない。お前(私)の話などなぜ聞かないといけないのかと思うのかもしれないし、自分の弱みを見せたくないのかもしれない。どれほどつらくても、自力で何とかしなければならないと思い、ぎりぎりまで我慢し、ある日とうとう、出社できなくなるのである。病院に行くと、うつ病だと診断される。

医師の診察を受けたり、カウンセリングを受けたりしなくても、もっと早い段階で誰かに話ができていれば、追い詰められて病気になることはなかったのではないかと思う。

人に援助を求めないのは、そうすることを弱さの現れだと見なしているからである。追い詰められ死をも考える人にとっては、援助を求めようと思えるかどうかは生死を大きく左右することになる。

どんな時に援助を求めてはいけないと思うのだろうか。

 

道徳からの自由

まず、道徳の圧力である。面と向かって何かをいわれるというより、こうするべきだという世間からの無言の圧力を感じ、自分の悩みや懸念を誰にも打ち明けないということがある。

慢性腎不全で週三回血液透析を受けている18歳の女性がいた。医師から腎移植の提案がされた。その際、腎臓の定着率は百パーセントというわけではなく、場合によってはすぐに摘出しなければならないということがありうるという説明も受けた。

検査の結果、腎臓を提供できるのは母親だけであることがわかった。腎移植の手術の準備が進む中、この母親は元気をなくした。そのことに気づいた看護師が母親に話を聞いた。

「娘のために腎臓を提供できるのは私しかいないのは、よくわかっています。でも、夫の母親が、『母親ならそれくらいのことをしても当然よね』というのを聞いた時、何かしっくりこなかったのです。このままだと割り切れない気持ちを残したまま、手術を受けることになるかと思うと、不安でしかたないのです」

私が道徳といったのは、「母親ならそれくらいのことをしても当然よね」という時の「当然」のことである。当然だと一体誰が決めたのか。このケースでは、母親しか娘を救えないのだから母親が自分の腎臓を提供するべきだと考える人は多いだろう。しかし、親の側にも腎臓を摘出することに伴うリスクがある。母親だから子どもに腎臓を提供して当然と思う人には所詮他人事である。世間が決める当然が常に合理的であるわけではない。

当然かどうかは自明ではないので、哲学者は常識を疑い、カウンセラーもこうするのが当然というような説教をしたりはしない。「そんなことを考えてはいけない」と一蹴するカウンセラーに誰が相談に行くだろう。「割り切れない気持ち」を呑み込んではいけないのである。

 

介護の話でいえば、読者からの相談を見ても、
「夫の親をいずれ介護しなければいけないが、姑が難しい人でうんざりです」
 とか
「八十七歳の認知症の親(夫の親)の介護を毎日続けているのに、『こんな人生になると思わなかった』と憎まれ口をいわれても、嫁は投げ出すこともできない」

と自分がするものだと考えている人が多い。しかし、現実に自分が介護をしなければならない状況にあっても、一度は「当然」という枠を外して考えていいと思う。

できればこのような話をしても決して批判しない友人がいればいいのだが、少なくとも自分で考える時に、仕方ないと思って自分を追い詰めないことが大切である。

自分では判断がつかないことがある時、誰にも相談できないと思うのは他の人を信頼していないからである。実際には、「当然」という言葉を振りかざす人がいるのは事実だが、皆がそうであるはずはない。打ち明けてみれば、自分も同じ経験をしたとか同じことを考えていたという人もいるはずである。

先の母親は、「親だから」ではなく、娘が新しい人生を歩み出す力になりたいと思って手術に臨む決心をした。

  

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岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2018年6月号に掲載の情報です。

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