高齢者にとっての早期発見、早期治療の意味
今では、いろいろな病気について早期発見、早期治療が望ましいとされています。ただし高齢者の場合、そうとは限らないことが結構多いのです。
例えばがんを早期発見すれば、化学療法などが有害なことも多い。そこで手術ができて、よかったと思われるわけですが、胃がんの場合は、胃の3分の2を取られたりするので、それ以降の栄養状態が悪くなって、体力ががくっと落ちることは珍しくありません。
高齢になるほど、一般にがんの進行は遅い。治療をしなくても、それから10年くらい生きることは当たり前にあります。
昔、浴風会という高齢者専門の総合病院に勤務していたことがあります。そこでは、亡くなった後、解剖をする伝統が続いていて、年に100例ほどの解剖が行われていました。病理の先生に聞くと、85歳を過ぎて身体中のどこにもがんがない人はいないそうです。
ところが死因ががんの人はそのうちの3分の1で、残りの3分の2については、多くの場合「知らぬが仏」で、がんを飼いながら生きていたということです。そのほうが元気なこともあり、私はお年寄りにはがん検診も、治療も原則として勧めません。がんというのは、検診を受けないと手遅れになってから発見されることが多いのですが、そのくらい症状が出ない病気だからです。
ほかの多くの病気でも、高齢者の場合、例えば検査データが異常だと、血圧であれ、血糖値であれ、コレステロール値であれ、骨密度であれ、すぐに薬が出されます。しかし、薬をたくさん飲む害のほうが、薬を使うメリットより大きいことが、いろいろな調査でわかってきています。私の臨床経験からもそんな気がします。
認知症への誤解が進行を早める
私が専門とする認知症についても、早期発見、早期治療が重要だといわれることが多くあります。確かに、1999年にアリセプトという、認知症の進行をある程度抑える薬が使用可能になり、2000年には介護保険が始まって、デイサービスなどの利用により、身体や頭を使うので、認知症や身体機能の低下が遅れるようになったのは事実です。
それまでは、認知症の診断を受けても治療薬がなく、デイサービスもほとんど利用できず、逆に家族が「危ない」「恥ずかしい」という理由で家に閉じ込めておくことが多かったので、早期発見されると、むしろ認知症が逆に早く進行してしまうという傾向がありました。
今は早期発見されれば、薬はもらえるし、介護保険も受けられます。しかし、薬がそれほど劇的に効くものではなく(効かないという医者もいますが、私は多少は効いている実感があります)、デイサービスなどに拒絶的な患者さんも多いので、アメリカで認可された薬が日本でも認可されたりしない限り、早期発見がそれほど有効とはいえません。
そして、日本ではまだまだ認知症に対する偏見が強いのも問題です。
認知症であっても、できることはなるべく続けさせたほうがその進行は遅いし、軽いうちはほとんどなんでもできるのに、認知症と診断されたとたんに、商店主などが引退させられたり、子守りのようなことも奪われるケースも多くあります。
その上、日本はマスコミと警察官僚が無知なので、十分運転ができる軽い認知症の人が免許を取り上げられてしまうのです。実際は、認知機能の低下と運転技能には、それほどの相関がなく、池袋の事件にしても福島の事件にしても認知機能検査はクリアしていました。認知症がある程度重くなれば運転は控えたほうが安全でしょうが、そうでない場合は、運転を続けたほうが認知症は進みません。そういう意味で、私は認知症の早期発見、早期治療を積極的に勧めていないのです。
しかしながら、うつ病という病気に関しては、早期発見、早期治療が非常に重要だと思っています。
早期発見・治療でうつ病は治りやすくなる
それは、長い間うつ病を放置するほど、神経細胞がダメージを受ける可能性が高いという理由もあります。前述のように歳をとるほどうつ病は増えますが、それは歳をとるほどセロトニンという神経伝達物質が減ってくるからだとされています。
昔から、セロトニンが減ることがうつ病の原因だと考えられていました。1988年に脳の神経細胞と神経細胞のつなぎ目のシナプスという場所で、セロトニンを増やす薬が開発された際に、うつ病にこれまでの薬以上に有効で、副作用も少ないと注目されました。ドリームドラッグというようにいわれ、日本では1999年に初めてこの手の薬が利用可能になりました。ただ、ここで一つ疑問が生じました。
この薬を使えば、ものの30分もしないうちに、シナプス内のセロトニン濃度を大幅に上げることができるのに、それが実際に効果を出して、うつ病が改善し始めるまでに2週間くらいのタイムラグがあることです。現在の仮説では、セロトニンが減ってくると神経栄養因子とよばれるものが減ってしまいます。それによって、神経が弱った状態がうつ病です。セロトニンが元に戻ると、神経栄養因子も回復してくるので、こんどはそれが神経細胞を修復します。そしてある程度、修復できるまでにかかる時間が2週間くらいなのです。だから、薬の効果がはっきりするまでに2週間かかるのです。
もしこの仮説が正しければ、うつ病を放っておけば放っておくほど、神経栄養因子が足りない状態が続き、神経細胞のダメージが大きくなります。このダメージが大きいほど、うつ病は治りにくくなります。実際、早期発見、早期治療のほうが、長年うつ病を放っておいた人より、うつ病が治りやすいのは私の経験からもよくわかります。高齢者の場合、この神経細胞へのダメージが認知症にもつながりやすいのです。実際、うつ病の高齢者が、そのまま認知症になってしまうことは珍しくありません。
これは頭や身体を使わなくなるせいだと考えられていましたが、神経栄養因子が減った状態が長く続くせいだというのは、十分納得できるはずでしょう。
【セロトニン不足がうつ病の引き金に】
セロトニンが減少して神経伝達がうまくいかなくなると、気分が落ち込みうつ病になります。薬の効果でセロトニンが増えると症状も改善します。
うつ病が招く悪循環の連鎖
うつ病を早期発見、早期治療をした方がいい理由は、うつ病のさまざまな症状が、悪循環のもとになることです。
例えば、うつ病になると、「俺はもうダメな人間だ」「生きている価値がない」などと悲観的なことを考えるようになります。ところが、この悲観的な考えは、うつ病を余計に悪くします。「うつ病→悲観→うつ病」のさらなる悪化という悪循環が起こり、どんどん悪くなってしまうのです。
うつ病になると食欲が低下します。素麵のようなあっさりしたものを好むようになり、肉のようなものは敬遠されがちになります。セロトニンの材料は、トリプトファンというアミノ酸で、これはたんぱく質が分解されてできるものです。大豆にも多く含まれますが、やはり肉類が重要な材料といえます。
これも、「食欲低下→たんぱく質摂取不足→セロトニン不足→うつ病の悪化」という悪循環を起こすことになります。
うつ病になると睡眠不足になりやすいのですが、これもセロトニンの枯渇を招くとされています。「睡眠不足→セロトニン不足→さらなるうつ病の悪化」という悪循環が生じるのです。
さらに、うつ病で眠れなくなると酒量が増える人が多いものです。これもセロトニンを枯渇させます。ここでも、「不眠→アルコール摂取の増加→セロトニン不足→うつ病の悪化」という悪循環が生じるわけです。
お酒に関しては、わいわいとみんなで楽しく飲む分には、ストレス解消にもなるし、うつ病の予防効果も考えられるのですが、一人飲みはアルコール依存症やうつ病のリスクを高めます。そういうわけで、うつ病になってからはお酒はやめたほうがいいでしょう。