夫婦で穏やかな老後を過ごすと疑わなかった...。50代の夫婦を突然襲った「妻のがん」。子供のいない2人暮らし、家事のできない夫に、がんの妻が「鬼コーチ」と化して料理特訓を始めて...。前回の連載が反響を呼んだ藤井満さんの著書『僕のコーチはがんの妻』(KADOKAWA)より、笑って泣ける「愛の実話」を、さらに第4章の途中(全6章)まで抜粋してお届けします。
前回のエピソード:後から「幸せだった」と思うんだろうな...。がんの妻と過ごす時間/僕のコーチはがんの妻(8)
完治信じて治験へ。野菜たっぷり「土鍋蒸し」伝授
2月半ば、大阪国際がんセンターの腫瘍皮膚科で治療方針を聞いた。
肝臓への明確な転移は2カ所だが、その周囲にも病変が見られるため、手術などはできないという。
薬は、分子標的薬と免疫チェックポイント阻害薬の2種類がある。
分子標的薬は6割の人に効くが効力が長続きしない。
オプジーボなどの免疫チェックポイント阻害薬は効く割合は低いが、一度効くと長く持続する。
進行が早いから分子標的薬をまず使うのが一般的だが、効かなくなったとき、どの段階でオプジーボに切りかえるのかがむずかしい。
もうひとつの選択肢は、分子標的薬と免疫チェックポイント阻害薬を併用する臨床試験(治験)への参加だ。
併用することで即効性と持続性の両立が期待できる。
ただ、治験に参加しても、両方を使うグループと分子標的薬だけを使うグループにランダムに振り分けられるため、半分は新しい治療を試せない。
完治の確率を少しでも高めるため、迷わず治験を選んだ。
診察後、看護師さんが待合室に出てきて、相談にのってくれた。
「お酒はやめた方がいいですか」と妻がたずねると、
「治療がはじまったらやめた方がいいかも」
妻は日本酒が好きだが飲めなくても問題はない。
でも僕にとっては、手料理を食べながら、おいしい酒でほろ酔い気分を共有するのが幸せな時間だった。
それがなくなると思うと、たまらない。
「あんたが飲めないわけじゃないのに、なに泣きそうな顔してるんや」
妻は笑った。
その翌日だったろうか、「私が入院したとき、野菜を簡単にたっぷり取れるメニューを教えたるわ」と土鍋で蒸し野菜をつくることになった。
「火が通りにくいかぶやじゃがいも、たまねぎを下に敷く。すぐに火が通るトマトやパプリカは後から加える。コツはそれだけや」
鶏肉の処理がめんどうなら、ソーセージやベーコンでもよいという。
ソースは、ヨーグルトの割合を増やすとさっぱりして野菜の味がよくわかる。
オリーブオイルを加えるとワインのつまみにぴったりになった。
日本酒に合うおかずをつくるのが得意だったが、たまに独創的すぎる料理もあった=2010年
食後、ワインを飲みながら、「日々を大事に生きようね」と僕が言うと妻はうつむいた。
「日々を大事にとか意識すると、死の準備をしているようでいやや」
「それより生きるための細々したことをしたい。タケコが腹巻き付きのパンツを送ってくれて、そうだっ、日々の生活が大事なんだって気づいた。肌ざわりのよい下着を買ったり、かわいいものをそろえたりしたい。そういうことで気がまぎれるのが女の強さや」
タケコとは愛媛で市議会議員(当時)をしている友人だ。
「今は坂の途中や。治療をちゃっちゃとはじめることだけを考える。患者会とかはある程度落ち着いてからでいい。どこかで落ち着けるってのは、楽観的すぎるかもしれないけど」
妻は自分に言い聞かせるように語った。
【次のエピソード】街を歩くだけで、あふれる涙...。救いを求めて訪ねた「哲学外来」/僕のコーチはがんの妻(10)
イラスト/藤井玲子
6章に渡って綴られる「家族の愛の実話」。巻末には著者に妻が教えてくれた「23のレシピ集」も収録