夫婦で穏やかな老後を過ごすと疑わなかった...。50代の夫婦を突然襲った「妻のがん」。子供のいない2人暮らし、家事のできない夫に、がんの妻が「鬼コーチ」と化して料理特訓を始めて...。WEB連載で33万人が笑い、そして涙した「家族の実話」を、藤井さんの著書『僕のコーチはがんの妻』(KADOKAWA)より第2章の途中(全6章)までを抜粋、7日間連続でお届けします。
ふくれたほくろ、正体は皮膚のがん。妻は料理を教えはじめた
2017年7月、1年間の長期休暇で中米コスタリカを旅しているとき、父が急逝した。
あわてて帰国して、さいたま市のJR大宮駅前でリムジンバスからおりると、妻が迎えに来ていた。
そのとき、妻の左側の鎖骨にあるほくろが、旅に出る3カ月前よりふくらんでいるのが気になった。
父の葬儀を終え一段落したころ、「医者に行こうよ」とすすめた。2人で、大阪市の自宅近くの総合病院へ。
「イボを切ってすっきりしましょうねぇ」と看護師さんに言われ、「イボやて。病院なら腫瘍って言うもんやろ?」と妻は軽口をたたいた。
6日後、亡父の戸籍の手続きのため東京に行くと、妻からメールが届いた。
「イボやなくてメラノーマ(悪性黒色腫)やて。初期ではないって」
ステージⅡBだった。
メラノーマって、『巨人の星』の星飛雄馬(ひゅうま)の恋人がかかった病気では?
新幹線に飛び乗って、スマホで調べる。初期ならば完治の可能性が高いが、進行して転移すると......。
父の死を悲しむ気持ちは吹っ飛んだ。
まずい、まずいよ。
新幹線のなかでつぶやきつづけた。
帰宅すると、予想に反して妻の表情は落ち着いていた。
「大丈夫か?」と僕が声をかけると、堰を切ったようにしゃべりはじめた。
「ほくろはちょっと気になってたけど、美容整形のレーザーメスで切れば終わりと思ってた。バイオリンの発表会の後に落ちついたら医者に行くつもりだったけど、お義父さんが亡くなって、『医者に行ったほうがいい』ってミツル(僕)が言うから病院に行く気になったの......」
妻はそれだけしゃべると、大きく息を吐いた。
なんと言っていいかわからなかった。
脳や肺に転移したらどうしよう。海外なんか行かなければ早く気づいてあげられたのに......
頭が混乱して、その夜は一睡もできなかった。
翌日、パートから帰ってきた妻に僕は提案した。
「治療で体調が悪いとき、俺が家事をできるように教えてよ。しんどいときイライラしたくないやろ?」
結婚した当初、僕は家事を分担するつもりだった。
だが、洗い物を台所に放置し、洗濯物をしわが寄ったままつるす僕に、妻は1カ月でぶち切れた。
「家がごちゃごちゃになる。今後いっさい家事は禁止や!」
以来、すべておまかせ。
野菜たっぷりの料理をつくってくれるし、毎日掃除をしてくれる。独身時代十数年間悩まされた冬場のぜんそくも1年で完治した。
だが今回、僕が申し出ると、「ビシビシいくから覚悟やで」と妻は受け入れた。
「まずはこれをつくってみ」とわたされたレシピは「なすと豚肉とピーマンのこってり炒め」。
台所に立って、なすとピーマンを切ろうとしたら、
「順番がちゃう!」
最初は、みそと酒と砂糖とみりんを混ぜて調味液をつくるんだそうだ。
材料に火が通ったら最後にこの調味液をかけて仕上げるという。
「まな板が臭くなるから、肉を先に切るな!」
「なんやその手つき! なすより前に指を切るど!」
絶え間なく叱声(しっせい)が飛ぶ。
20分ほどで完成した。にんにくとしょうがの風味が効いて、ちゃんと中華の味がする。
「餃子の王将」の野菜炒めよりもビールに合う。
「私の言った通りにつくればまずくなるはずがないわな」と妻はふんぞり返った。
夕食後、フライパンや食器をザッと洗って「作業終了!」と宣言したら「終了やて?」とにらむ。
あわててシンクを洗おうとすると、
「先に食器をふかんと、はねた洗剤がつくやろ」
「排水口も洗わんとぬるぬるや」
ごみのたまった水切りネットを捨てて、排水口の内側をスポンジでみがく。今度こそ終わりかと思ったら、
「まだ! はねてる水をふかんとフローリングにたれるやろ」
食器をふいたフキンを30秒間電子レンジでチンして、ようやく解放された。
「鬼コーチ」の指導がはじまった。
(つづく)
イラスト/藤井玲子
【次のエピソード】患者と家族は孤独だ...。妻の手術と「がん相談センター」/僕のコーチはがんの妻(2)
6章に渡って綴られる「家族の愛の実話」。巻末には著者に妻が教えてくれた「23のレシピ集」も収録