2016年9月、医師から「肺がんステージ4」という突然の告知を受けた刀根 健さん。当時50歳の彼が「絶対に生き残る」と決意し、あらゆる治療法を試してもがき続ける姿に......感動と賛否が巻き起こった話題の著書『僕は、死なない。』(SBクリエイティブ)。21章(全38章)までの「連日配信」が大好評だったことから、今回はなんと31章までの「続きのエピソード」を14日間連続で特別公開します!
入院生活
検査や治療、お見舞いなどのない一人の時間、僕はつとめて〝考えないこと〟と〝いい気分でいること〟を意識した。
過去のことも、未来のことも、いっさい考えない。
考えてもしょうがないことは、考えない。
〝今〟を気分よく過ごす、それだけだった。
〝いい気分でいる〟ために、iPodで鳥のさえずりや波の音、イルカの声などが入ったリラクゼーションの音楽を常に聴くことにしていた。
カーテンを引き、一人の空間を作る。
ベッドに横になり、ヘッドホンをつける。
耳からは鳥たちのさえずりが聞こえてくる。
そう、ここは森の中。
僕の頭の中では、エメラルドグリーンの木々たちがさわさわと踊っている。
葉っぱの隙間からはキラキラと宝石箱をひっくり返したような光が僕の顔を照らしていた。
なんて綺麗なんだろう。
木々にとまった鳥たちが喜びを謳歌している。
命が〝今〟を生きていることを謳いあげていた。
身体から力が抜けていく。
無意識に固まっていた筋肉があったかいお湯に浸かったようにほぐれていく。
胸の中のズキズキやチクチク、股関節や坐骨の痛みも不思議と小さくなっていき、最後には消えてしまった。
ああ、なんて幸せなんだろう。
ここは天国だ。
そう、天国は今、ここにあるんだ。
手や足がジンジンと重くなってきた。
身体の中をエネルギーが流れていく。
それは頭のてっぺんから尾てい骨まで、まるで小川のせせらぎのように暖かなエネルギーが流れていた。
そのうち、身体とベッドの境界線がぼやけてきた。
身体の感覚が消えていく。
無限の空間に身体という物質が溶け込んでいく......なんて気持ちいいんだろう。
そして今度は、僕という存在自体が消えていく......。
自分という意識の境界線が、ぼんやりとしてきた......。
ああ、そうか......僕はここから来て、ここに帰っていくんだな。
ここには何もないけど、全てがある。
足りないものなんて、何もない。
全てがあるから、何もいらない。
ああ、なんて幸せなんだろう。
がんでも幸せ。
がんじゃなくても幸せ。
どっちも同じ。
そのとき、僕という意識は完全になくなり、至福と一体に、いや、至福そのものになっていた。
そこは物質を超え、意識を超えた世界だった。
そう、身体が消えても、自分が消えても、至福は残る......。
至福は、死なない。
限りない幸福感の海を心ゆくまで泳いでからベッドの上の現実に帰ってきて、目を開けて思った。
僕は至福から生まれ、至福に戻って行くんだ。
じゃあ、死ぬことなんて怖くないじゃないか。
あそこに戻るだけなんだから。
入院が決まった日の夜のことだった。
長男が自分の携帯を差し出して言った。
「父さん、いいよ、これ」
それはKOKIAというアーティストの「愛はこだまする」という曲の教会でのコンサートの映像だった。
僕は彼から受け取ると、早速ヘッドホンをつけて再生ボタンを押した。
ピアノの音とともに、KOKIAの澄んだ声が流れ込んできた。
次の瞬間、涙があふれてきた。
なぜかわからない。
とめどもなく涙が流れ落ちてくる。
僕は壁を向いて横になり、曲が終わるまでの約10分間、涙を流し続けた。
音楽の力はすごい。
曲が終わったとき、とても癒された自分がいた。
僕は入院中、毎日何度もこの曲を聴いていた。
目をつぶってKOKIAの澄んだ声を聴いていると、僕の胸がぎゅうっとなる。
ああ、そういえば、自分に「I LOVE YOU」って言ってこなかったな......。
僕は、自分のことを全く愛してこなかったんだな......。
ごめんね......ごめん、僕。
そのとき、まぶたの裏に子どもが現れた。
その子は小学校の低学年くらいで、なぜか薄汚れた体操服を着ていた。
その子は不安そうな、今にも泣き出しそうな顔をして、僕を見ていた。
この子は僕だ!
今まで、全く気づかないようにしていた、無視していた、僕の中の子どもの僕......。
僕の中でいないことにしていた僕。
弱い僕、臆病な僕、自信のない僕、傷ついて泣いている僕......全部、僕だった。
気づかなかった......この子が僕の胸の中にいることに......。
ごめん、本当にごめん。
僕は心の中でその子を抱きしめるように、自分の身体を両手で抱きしめた。
ごめんよ......愛しているよ、愛してる。
KOKIAの澄んだ声と一緒に「I LOVE YOU」と言いながら、自分を抱きしめ続けた。涙がとめどもなく流れていた。
毎日毎日、何度も何度も、この曲とともに自分を抱きしめているうちに、涙はだんだんと出なくなり、そのうちに暖かい微笑が浮かぶようになった。
あの子が「もういいよ、ありがとう」と言った気がした。