<この体験記を書いた人>
ペンネーム:るんまむ
性別:女
年齢:55
プロフィール:夫の血を受け継いだ唯我独尊部隊のレンジャー(息子)3人を育てました。
次男は決して頭の悪い子じゃなかった。
でも、賢い子でもなかった。
たぶんごく普通の子供だったのでしょうけれど、彼が義務教育後に選択した学校は、エンジニアを養成する特殊な学校。
勉強がそれなりにできないと入れないところでした。
しかも、家から通える距離に学校がなかったので入寮。
生活が全く見えない不安もありましたが、離れて暮らすぶんだけ手が離れてしまったようなところがありました。
親元を離れた次男は秋ごろから次第に様子がおかしくなり、本人に任せる形で様子を見ていたら、なんとその年に留年。
どうやら落ちこぼれてしまったのです。
そして時間の経過とともに彼は自主退学という道を選びました。
彼は彼なりに親に対して負い目を感じていたのかもしれません。
家に戻ってきた次男はほとんど口をきかなくなり、ほぼ引きこもりのような状態になりました。
そんな彼に対し、夫は高卒認定を取って大学に行くことを迫り、今後の目標やそれに向けての計画表、さらには毎日何をしたのかの報告書を提出するよう、生活スケジュールの厳しい管理を求めました。
一番つらいのは彼本人であり、いろいろ悩んだ結果としての今がある。
なのに夫から追い打ちをかけられ、同じ屋根の下にいながら夫とは顔も合わせられない状態になったのです......。
そこで思い出したことがあります。
彼が3歳くらいの時でした。
規則正しい生活をするために、時間がきたので寝かせつけようとした私に対し「いつもお母さんはお母さんのやりたいようにやっている!」と口を尖らせて怒ったことがあります。
「僕には僕のやり方がある!」
それが間違っているかいないかというより、随分と小さい頃から自分の意見や意思を明確に持った子でした。
大人になってもそういう基本的な部分は何も変わりません。
大学だって、自分が勉強したいと思うことがあれば行く努力をするかもしれないけれど、それもないのにただ大学に行けと言われても努力はできないと言ったのです。
大学に行く意味を感じないとも。
そんな彼に対し、私はただ見守ることしかできませんでした。
そんななかで彼は彼なりに考え、20歳の時に自分のやりたかったバンド活動も少しさせてくれるライブハウスに臨時の職を得て、とりあえずは仕事を始めることにしました。
ライブハウスではたくさんの出会いがあり、多くの人に育てられる形で彼は少しずつ自分を取り戻していきました。
そして働きながら自分の生きる道を探し、25歳の春に小さな会社ですが正社員の職を得て家を出ました。
自分のやりたかった音楽系の仕事だそうです。
ホトトギスも鳴くまで待つのが私なら、殺してしまうのが夫。
私が甘やかすから彼がダメになったと何度夫に言われたことでしょう。
でも、どこがダメなの?
千尋の谷に突き落としても、這い上がってくるだけの強い意志と元気がなければ沈んでいくだけ。
まわりで何を言っても、自分から動きださないと何も始まらない。
次男に限らず、息子が家に帰ってくるときはたいてい体も心もボロボロになっている時。
そうでなければ、夫同様に鉄砲玉ですから帰ってなんかきません。
自分で見つけた道が石ころだらけで茨がたくさん出ていたとしても、歩くと決めたら何があっても歩くのでしょう。
いつだって私は後ろからただ見守るだけ。
親ができることには限りがあります。彼には彼の人生がある。
次男は夫が望む学歴を得ることはなかったけれど、これでよかったのだと思っています。
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