書店でぶらぶらと本棚を眺めていると、安藤和津さんのご著書『"介護後"うつ』が目に留まりました。以前、TVで壮絶な介護経験を語られていたことを思い出し、何気に手にとってみました。
本の帯の最後のメッセージ「娘の笑顔は宇宙一愛しいなって思う。けど、お母さんの笑顔は宇宙一、恋しいんダ!!」この一文を読んだ時に思ったのは「ほんとにそう」。
私のずっと求めていたものは、母の心からの笑顔だったなと思ったのです。
今振り返ると、思春期のころから母のサポートをしていたと思います。
日々の不平不満や、時には夫婦の悩みごとなど、高校生になる頃には、すっかり母の相談相手になっていました。母は一人っ子だったので相談相手のきょうだいは無く、親しい友人もいませんでした。親戚は近所にたくさんいましたが、母が愚痴を言っている姿を見たことがありません。他人には心をゆるせなかったのでしょう。
正直、なんで私がという思いはありました。しかし、私は3歳下の妹と二人姉妹で、長女といものはそういう役目があるのだという気持ちもあったのです。長女って損な立場だと思っていました。
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この頃から、母の体調は思わしくなく、入院することもありました。家にいる時も横になっていることが多かったのです。
私は部活の帰りに市場に寄って食材を買い、そのまま台所に立って夕飯の支度をすることもありました。友達と遊んでいても母の体調が悪いからと早く家に帰ることもありました。
そんなことが、社会人になってからも続き、「具合が悪いから...」という母からの電話が職場にかかってくることがしばしばありました。当時、携帯電話はなく、家から何度もかかる電話にすごく恥ずかしい思いをしたのを覚えています。
「やめてほしい」と母に訴えたところで、私の気持ちを理解しようとすることはありません。むしろ、人がこんなに苦しんでいるのに助けないほうがおかしいというのです。
「一人では病院に行けない」という訴えを素直に聞き入れ、仕事を休んで病院についていくことも何度もありました。実際についていくだけで、私が何をするわけではないのですが。
母は思い通りにならないと激高して手がつけられなくなるので、断ったら後で厄介なことになる。それなら、はじめから望みを聞いておくほうがお互いのためだったのです。私は結局のところ、一度も母の要求に「ノー」と突き放すことがなかったのです。
自分の人生の傍らに、いつも母の存在が重くのしかかっていました。そのことがとても負担であったのは確かです。
しかし、一方で、元気になって人生を楽しんでほしいとも願っていました。「自分たちの周りには、こんなに素敵なことがあるよ」と、母に喜んでもらいたいとプレゼントをしたり、休日を共に過ごしたり、お小遣いを渡したり。あれこれとやってみましたが、心から喜ぶ顔をみることはありませんでした。
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記憶に残る母の笑顔は、私の結婚式当日。
先に支度がある私は、ひとり、迎えの車で式場に向かいました。その見送りの玄関で満面の笑みで送ってくれた母の顔。30年前のことですが、あの笑顔はそれまでの人生で最高の笑顔でした。車の中で母の笑顔を思い出しながら。すごく幸福感に包まれていたことを今でも忘れていません。
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