<この体験記を書いた人>
ペンネーム:ぴろ
性別:女
年齢:54
プロフィール:今年のお正月は母も愛犬も亡くなって、なんだか寂しいお正月でした。
母の遺品整理をしていたら、家計簿が数年分でてきました。
亡くなる2年前にはもう書くことができなくなっていたので、それ以前のものです。
2000年代はじめは、日々の買い物の金額や家のボイラーの点検費など、通常通り記入されていました。
1日分の家計簿欄の下に日記やメモを書くスペースがあるのですが、そこも記入されていました。
私は進学のため18歳で親元を離れているので、その日記の文章で母の暮らしが見えて興味深かったです。
唐突に「小栗旬の壁ドン」という言葉が書かれていたこともあります。
ちょっと笑ってしまいました。
近所に住む友人のことや、親戚が来てくれて一緒に食事したこと、父との喧嘩......。
そして年がすすむにつれて母の文字はわかりにくくなり、家計簿欄は空白が増えました。
それでも下の日記欄はなんとか記入されていました。
楽しい話はどんどんなくなって、今日も誰も来なかった、何もない1日で退屈だった、そんな記載が増えていきました。
そうか、そんなに寂しい思いをしていたのか、そう思いながら、その頃の自分の日記を読み返してみると、「?」と思いました。
母が何もなかったと書いてある日に、私が帰省していたことがあったのです。
他にも近くに住む叔母から、1週間に1度くらいはご飯を作って一緒に食べていると聞かされました。
その頃から母はもう認知症が始まっていたんだなぁと思い当たったのです。
その日になにかあっても、夜にはあったことをすっかり忘れてしまって「今日はなにもない1日だった」「今日もどこにもいかず退屈だった」になってしまうのでした。
それでもまだ半信半疑だったのですが、文字が書けた最後のあたりの日記を見ると、相変わらず「今日もなにもない」「今日もどこにも行かない」のオンパレードです。
その頃は母を近くの施設に呼び寄せていたので、何があったか私は把握できています。
やはり認知症のせいで、その日を振り返り、何があったかを書くことはできていなかったんだなと思ったのです。
1日の終わりに「なにもない、退屈だ」としか思えないなんて悲しいなぁと思っていました。
でもごくたまに「今日はお姉ちゃんたち(私と妹のこと)とカラオケにいってとても楽しい日でした」なんて書いてくれているのを見ると、心底嬉しく思いました。
私が施設に顔を出したときも「今日はお姉ちゃんが来てくれた、ほっとする」と書いてくれていました。
そんなに楽しみにしていてくれたなら、もっと無理してでも行けばよかったと今更思ったりしました。
母は私たち娘にとって、とても明るく頼りになる母でした。
もっと一緒にいたかったね、お母さん。
「父の妻」として異様にプライドが高かった母。父が亡くなって母が涙を流した理由は...
もうあの綺麗なお弁当は食べられないけど...認知症の母が作ってくれたおにぎりに涙
ピアノ教室を開いていた実家に毎週帰っていた私。あの頃、母の「ありがたみ」は感じなかったけれど...
- ※
- 健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
- ※
- 記事に使用している画像はイメージです。