<この体験記を書いた人>
ペンネーム:ぴろ
性別:女
年齢:54
プロフィール:介護の末、老犬が亡くなりました。そして母も。平成最後に別れが重なりました。
遠方に住んでいた母を私たち娘が住む町に連れてきてほぼ2年、母が亡くなりました。
認知症の症状に気づいたのは6年ほど前。
それから父が急死し、生活がガラッと変わりました。
最初に地元を離れるとき、母は私たち姉妹の家を行き来しながら暮らしていきたいといっていました。
でもふたりとも仕事があるので、母を一人にしてしまいます。
ですので施設に入居することを決めたのですが、今思えば、もしかしたら家で一緒に暮らすこともできたのかもしれないと思ったりもします。
もっとなにか知恵を絞っていたら、母の望みをかなえてあげられたのかもしれない、違った暮らし方ができたのかもしれない、と。
母は施設に入ってからもしばらくは「そろそろ帰ろうかと思うんだ」とか「お父さんはどうしてる?」と言っていました。
でも、父は既に亡くなっており、施設はショートステイではなく住宅としての入居。
毎回初めてのように母に説明し、そのたび「あらそう」と言っては、また次の日同じことを聞いてくる母でした。
時々、施設から私のうちに「お泊りするよ」というと、とても嬉しそうにしてくれたのを思い出します。
うちに泊まったからといって何か特別なことをするわけではありません。
母が好きだったものを思い出しながら、ご飯を作るくらいのことしかできません。
そんなお泊りでしたが、初めのころは、母は私がまだ寝ている間に起きて、知らないうちにご飯を炊いてくれました。
母にはお米がどこにあるとかうちの台所のことは何も教えていません。
それなのに「ご飯が炊けたよ」と私を起こしにきた母にびっくりしながらも、ああ、まだ認知症でも大丈夫だと思ったことがまるで昨日のことのようです。
母の体調がよさそうなときには、植物園にお花を見に行ったりしました。
いつも母を喜ばせたくて、笑っていてほしくて、できることを探していました。
やがて母は肺の具合が急激に悪くなって車椅子の生活になってしまいました。
もともと肺が丈夫ではなかったのですが、持病もあったせいか、みるみる衰えていき、歩いてトイレに行くのもやっと。
酸素を使っていましたが、それでもハアハアと苦しそうにしている時間が増えました。
そんなとき、施設から連絡があり母は入院することになりました。
施設の方から、もっとわがままを言っていいんだよと常々言われていた母が、その日の朝「もうだめ」と言ったそうです。
そこから救急搬送されて入院、一時は良くなり退院後の生活の話をしていたのに急変し、亡くなりました。
最期の日の午後、お見舞いに行きました。
そのとき「大丈夫?」と私が声をかけると母はささやき声で「バッチリだ」と言いました。
見た目には全然バッチリではないけれど、そういっていました。
「今日はとってもいい天気で、空は青空だよ」というと起き上がれないけど窓のほうを見てうなずいていました。
「またくるからね」。
母の布団の手元が少し動いていました。
母が布団のなかで手を振ってバイバイしてくれていました。
その日の夜10時頃病院から連絡がきて駆けつけると、母は既に亡くなっていました。
9時半の見廻りのときには寝ていたということだったので、寝ているうちに心臓が止まったのだと思います。
本当にやすらかでまだ寝ているようでした。
最期までお母さんらしい生き方でした。
何もできなくてごめんね、ありがとうお母さん。
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