<この体験記を書いた人>
ペンネーム:ひまわり
性別:女
年齢:44
プロフィール:2年前最愛の母を亡くし、毎日毎日母の事を考える日が続いています。
私の母は、3年9カ月病気と共に生きた後、2年前の秋に67歳で天国に旅立ちました。
母の病気が分かったのは、私が第一子を出産し、母が初孫に喜んでから半年後のことです。
大腸ガンステージ4、肝臓と肺への転移があり、3回の大手術、13回の入院、抗ガン剤治療が続きました。
母は、病気が判明したときから一度も取り乱すことなく、それを受け止め、自分の中にできたガンに「さん」をつけ「ガンさん」と言いながら共に生きました。
そんな母が亡くなる8カ月前に突然「マンション買ってん」と言って連絡をしてきました。
「え?」と私はびっくり。
前々から一戸建てを売り、マンションを購入したいと言ってはいましたが、あまりに突然で即決だったのが母らしいとは思いました。
母は家を大事にした人で、22年経った家が思いのほか高く売れたのは、母が大事にしてきたからだと不動産屋さんにも言われました。
戸建ての価値の下がった家を残して自分がいなくなったら子どもにいろいろ負担をかける、という思いが母にはあったようです。
自分のことだけ考えればいいのにそうはいかない母。
マンションの完成まで3カ月を切ったある日、妹が母の目が黄色だと連絡をしてきました。
黄疸が出たのです。
ちょうど診察の日で「ちょっと疲れたのかな......」と言いながらそのまま入院し、次の日主治医から父の携帯に余命1カ月から1カ月半という連絡がありました。
信じられませんでした。
主治医からの電話以降は毎日毎日泣きました。
最後まで希望を持たせたいという父の意向を主治医に告げ、余命のことは最後まで言いませんでした。
というより言えませんでした。
いつも何事にも前向きな母にそれを伝える勇気がなかったのです。
母は一度自宅に戻り、亡くなる2週間前も新しいマンションのことで不動産屋とやりとりをしていました。
足がむくんでつらそうだったのに、電話では病気とは思えない勢いで話をしていた母。
亡くなる3日前に再び入院し、母と交わした最後の会話は、亡くなる前夜。
病院から帰るときでした。
明日も当然のように訪れると思った私は「お母さん、また明日くるから」と母と別れ、母は「気をつけて帰りや」と最後まで私達を案じる一言。
次の朝、病院から連絡があり駆けつけたときには、もう話せる状態ではなく、引っ越しまであとひと月というところで、母は息を引き取りました。
母は病気のことを、ほとんど誰にも伝えていませんでした。
母が亡くなったことを近所にも伝えずに引っ越しの日を迎えました。
母は引っ越しのときに、ご近所へのお礼の品としてすでに用意していた注染(ちゅうせん)手ぬぐいと母の故郷で育った柿を配るといっていたので、私達は母の故郷の柿を添えて、お世話になった方々にお礼と母のことを伝えまわりました。
特に仲良くしてくれた人は病気であることは全く気づかず、驚き、涙を流し、「でも、なんか、お母さんらしいお別れの仕方やわ」と言って泣いてくれました。
その人は、母の育てた庭の花が欲しいと言って受け取ってくれ、母との別れを惜しんでくれました。
つらいこと、しんどいことを絶対に人に見せない、心配をかけない母でした。
親しい人の中に元気な母が残っているなら、娘としてはうれしい限りです。
最後の最後まで母らしいお別れの仕方で、きっとあの日母も隣にいてお別れをしていたと思います。
命をかけて、大事なことをたくさん教えてくれた母に感謝しかありません。
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