大好きでした。女手一つで子供3人を育て上げた祖母の見事な最期

大好きでした。女手一つで子供3人を育て上げた祖母の見事な最期 20.jpg

ペンネーム:リラッママ
性別:女
年齢:40代
プロフィール:50代を目前にして少しずつ人生の整理をしたいなと思い始めた専業主婦です。

※ 毎日が発見ネットの体験記は、すべて個人の体験に基づいているものです。

◇◇◇

私は祖母が大好きでした。いい加減でだらしのない母とはうまく付き合えなかったのですが、母の親である祖母とはとても気が合い、昔から私の尊敬する人でした。

祖母は大正生まれ。年寄りっぽいことは嫌いでしたが、自分が年老いている自覚はある、きちんとした生活をする人でした。

祖母は若い時に離婚。まだ小さい子供3人をひきとったそうです。主婦でしたが離婚を機に職業訓練校に通い、美容師の資格をとりました。

女手ひとつで子供を育て、長男は大学に進学しました。

その後、祖母には私を含めて6人の孫ができました。

そして、「同居」という形はとらず、歩いて5分ほどのところにアパートを借りました。

叔父の家庭は共稼ぎだったので、祖母は学童が終わると孫を預かり、その後夜勤の仕事へ出かけ、明け方まで働いていました。夕方孫の面倒が見られるようにその仕事を選んだようです。おまけに、同時期に自分の両親も最後まで面倒を見て、看取っていました。

孫が成人した頃、長男の家の敷地内に小さな部屋を作って敷地内同居をして落ち着いた老後を過ごしていました。

私が成人し、車を運転するようになってからは、祖母を連れて二人で桜を見に行ったり、日帰り温泉に行ったりしました。その際も、十分ではない年金の中からは「ガソリン代」と1000円をいつも用意していた祖母。いらないよと、受け取ることはなかったけれど、必ず食事をごちそうしてくれました。また、就職祝いには全ての孫に、靴屋さんで高価な靴をプレゼントしてくれました。

節約を心がけ、つつましく、質素な祖母の生活。でも新聞は自分用に購読していて、その新聞にはいろいろな線や丸が書かれていました。気になった記事は切り取られ、私に見せてくれることがありました。

その中には市が主催するお見合いパーティーの記事もありました。

私は祖母にとって初孫でしたが、結婚が一番おそく、心配かけてしまいました。祖母はやっと決まった結婚をとてもよろこんでくれました。結婚を祝う食事会をひらいたのですが、若いときはパパッと自分で整えられた和装も体力がなくなり自分では着られなくなったと、着付けを頼んでまで着物を着て来てくれました。

植物が好きだった祖母は、数年前から「これを残しておくと長男やその嫁が困るからもう増やさないし、処分してる」と、遊びに来る方などに差し上げていたようです。古いタンスなども処分し、部屋の中を広く使えるようにしてあり、最後の少しの間使っていた介護用ベッドをおくスペースができていました。

その後祖母は入院したのですが、その時にもあれはどこだ! これはどうする? などの困ったことはほとんどなく、そしてあっという間に亡くなってしまいました。

本当に、私の結婚を見届けたかのようにあっという間でした。

祖母の葬儀は家族葬でしたが、叔父からは「手ぶらでくるように」と連絡が来ていて、どういうことかと聞いてみたら「おばあちゃんの残してくれたもので、葬式もお墓もその他のことも全部できるから、何も持ってこなくていいよ」とのこと。

すごい。おばあちゃん......。
祖母が亡くなった後、気が付けばほんとに部屋には何もなく、それでも処分のできなかった人形やミシン、テーブルや着物は、欲しいという家族や親せきが多く、叔父が困るようなことはなかったようです。私も指輪を1ついただきました。

祖母が亡くなったことはとてもさみしく残念なことですが、私もこんな風に最期をむかえられるようにこころがけたいなと思いまいた。最後に誰にも迷惑かけずに逝きたいと。

ほんとにきれいな最期をむかえた祖母。大好きでした。

関連記事:「終活で整理したい」「祖父母が残した写真どうする?」思い出のアルバムはデータ化を!

健康法や医療制度、介護制度、金融制度等を参考にされる場合は、必ず事前に公的機関による最新の情報をご確認ください。
記事に使用している画像はイメージです。
 

この記事に関連する「みなさんの体験記」のキーワード

PAGE TOP