「末期がんの母が人生最後の二週間を過ごしたのは、長崎の高台にある聖フランシスコ病院のホスピス病棟だ。悲しい別れの舞台だと思っていたホスピスで、母と私は思いがけず素晴らしい時間を過ごすことができた。特にシスターのヒロ子さんの存在はとても大きい。笑顔とともに発せられる一風変わった言葉の数々に、私たちはどれほど救われたことだろう...」
末期がんの母とその娘が、シスター・ヒロ子との交流で知りえた、誰にでもできる慈愛に満ちた「看取りのレッスン」。
※この記事は『シスター・ヒロ子の看取りのレッスン』(小出美樹/KADOKAWA)からの抜粋です。
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Lesson2
自分の葬式に着る服を決めておく
「私はね、お葬式にはきれいな白いドレスを着たいの」
もうほとんど目も口も開かなくなった母がそう言ったのは、シスターから、「弘子さん、お葬式に着る服は決めたの?」と聞かれたときだった。
「お葬式に着る服は決めておかないと、変な服を着せられてしまうわよ」
シスターは、母が自分の葬式の日に、母の意に沿わぬ服を着せられてしまわないよう心配している。それはまるで、数日後に行われるリサイタルの日に、演者のマネージャーが衣装のことを心配しているような、ごく当たり前のことを言っているといった口調だったけれど、数日先に必ず訪れるであろう母の葬式の日に、母本人が何を着るかなんてことを決めるのは、私にとってはまだ辛い話だったから、その会話に少し戸惑う。
ホスピスでは、死の話はタブーではないし、むしろどのように死ぬのかを考える場所ではあるけれど、シスターの現実的な言葉に、もうすぐ母が死ぬという事実が、現実を隠すためにかけられていた薄いヴェールの下から、急に露になって目の前に突き出されたような気がしてどきりとする。
けれどシスターと母が、とても楽しそうに話しているから、その様子を見ていると、そうか、自分の葬式に何を着るのか自分の意思で決められるということは、ある意味とても幸せなことかもしれないとも思った。
母が、小さな声で、白いドレスを着たいと言ったのを聞き取ったシスターは、「ほら、聞いたでしょ? 白いドレスよ、明日買いに行かなくっちゃ」と、勢い込んで私に言う。だから私も、「はーい、了解でーす」と、場違いなほど明るい返事をする。
シスターの言葉に時々びっくりしてしまうのは、私がまだ、死に対して及び腰であるからかもしれない。母が数日後に死ぬことが、医学的にも現実的にもはっきりとわかっていても、わかっていると思っているのは頭の中だけで、心のどこかでは、奇跡が起こってずっとこのまま、この穏やかなホスピスの部屋で、母と永遠に一緒にいられるのではないかと思ったりもする。それはまるで、うまくいかない恋愛の最後のように、別れが来ることがわかっているのに、いまはまだ悲しい決断を下したくないと結論を先延ばしにしているかのように、私は、母の死ぬ日が来ることを忘れたかったし、死という別れの瞬間を恐れてもいて、でもホスピスに入ったという時点で別れを受け入れているはずなのにという矛盾した思いを抱えながら、いまは、片時も母のそばを離れたくない思いでいる。
しかし私は、翌日の朝、デパートへ行こうと決意する。部屋へ来た看護師さんの一人に、「ちょっと買い物に行って来ます」と言うと、「なるべく急いで帰って来んばよ」と小さな声で言われる。そうなのだ、わかっているのだ、もうあまり時間がないことは。ドレスを買いに行くことを、これ以上先延ばしにはできない。
眠っている母に、白いドレスを買いに行って来るねと声をかけ、出かける準備をしていると、思いがけず母は目を開けて、「違ったわ、藤色のドレスだったわ」と言う。
どうやら母は、自分の葬式の夢を見ていたらしく、自分は藤色のドレスを着ていたのだと言う。うっとりするような表情で、「教会のステンドグラスからキラキラと射し込む光がきれいだったわあ」とも言った。
「わかった、藤色のドレスね」。母が小さく微笑んだのを見て、私は急いで部屋を出る。四階からエレベーターで一階へ降り、外来の患者さんたちで混み合うロビーを抜け、病院の玄関へ行き、ちょうど乗客を降ろしたばかりのタクシーに乗り込む。タクシーがぐるりと回るロータリーの真ん中には、アッシジのフランシスコと狼の白い彫像があり、動物とも話せたらしいその聖人に、行って来ます、と心の中で挨拶をして、久しぶりに下界へ降りるような感覚で町の中心部へと向かう。
すり鉢状になった長崎の、小高い丘の中腹にある病院から、町の中心部まで下ってゆく。いつもなら車で十分ほどで着くはずなのに、急いでいるときに限って道は混んでいる。二十分ほどかかって、すり鉢の底にあるアーケード街へ到着。町に一つしかない小さなデパートへ急ぐと、フォーマルウエア売り場は六階の片隅にあって、遠目から、ドレスは三着しかないことがわかった。私はそこへ迷いなく近づいて行き、その三着の中に藤色のドレスがあるのを見つけた。
そして、「すみません、これください」と店員さんに言うと、店員さんは驚いて、「え? ご試着は?」と聞いてくる。「大丈夫です、これです、これください」と私が重ねて言うと、店員さんはますます驚いた顔になる。
私はあわてて、「ええっと、母が着るんです」と言う。すると店員さんが、「あ、発表会か何かですか?」と聞くので、「実は、あの、自分のお葬式で......」と言うと、店員さんは絶句した。
店員さんの驚いた顔を見て、私は少し反省する。母の旅立ちへと向かって流れている私の中の時間と、普段、死とは無縁で生きている人の時間は、まるで違う流れ方をしているのであろうし、華やかなデパートのドレス売り場に、なんの前触れもなく「死」というものが突然入り込んできたら、誰だってびっくりするだろう。
急いで気を取り直した感じで店員さんは、私にというよりも、自分に言い聞かせるように、「お母様が、ご自分のお葬式に、このドレスを着るのですか?」と、ゆっくりと聞く。
私も意識的にゆっくりと、「そうなんです、自分のお葬式に、藤色のドレスを着るらしいんですよ」と言う。すると店員さんは、急に泣き出してしまった。
「すみません、ちょっとびっくりして。そんな風にドレスを選ばれる方は初めてなので」と言いながら、私の内にあるただならぬ勢いに気づいたのか、「お急ぎですよね」と動きを早める。
店員さんはきびきびと、店の奥から大きな箱を持ってきて、母の美しい藤色のドレスを、薄くてふわふわの白い紙にていねいに包み、それはそれは素晴らしい贈り物のように仕上げてくれた。
「ありがとうございます」と、その美しいパッケージに感動していると、「あ、ちょっと待っててください」と奥へ消え、「あの、これ、私からお母様に」と、藤色のドレスに合うコサージュを持ってきてくれた。
「あ、そんな、ちゃんとお支払いします」と恐縮したのだけれど、「いえ、これは私の気持ちです」と、店員さんは涙を拭いて毅然とした笑顔になって、ドレス代だけを私から受け取った。店員さんも、大切な人を見送ったことがあるのかもしれない。その心遣いが嬉しかった。
それから私は、ずっと気にしていた父の言い付け通りに、そのまま隣の喪服売り場で、自分用の喪服を買った。私は、住んでいる鎌倉から母の元へ駆けつけるとき、喪服をバッグに入れるかどうか一瞬悩み、黒い服を見ることを避けたい気持ちからか入れなかった。飛行機に乗るとき、もう母の死が避けられないことはわかっていたし、母がホスピスに入ってからは、父に何度も喪服を用意しておきなさいと言われていたのだけれど、喪服を買いに行くことをためらっていたのだった。
ドレスと喪服を両手に持ち、急いでデパートを出て、タクシーでホスピスのある病院へと戻る。フランシスコの彫像に、ただいまと挨拶をし、病院の玄関から入って左手にある聖堂に、一分だけ寄り道をする。青いヴェールを被ったマリア像が迎えてくれる祈りの場のステンドグラスは、午後の光で見事に輝くのだけれど、午前の光でも、心が落ち着く色彩を放っていた。聖堂に時々いるシスターの姿はいまは見えなかった。
母の部屋へ戻ると、ちょうど看護師さんが母の顔をきれいにしてくれているところで、「お母さん、買ってきたよ!」と箱を開けてがさがさと紙を開いてドレスを取り出して見せると、振り向いた看護師さんが、「まあ、きれいかねえ、サイズもぴったりやなかね」と言う。そこで初めて私は、自分がサイズも確認せずにドレスを買ってきたことに気がついた。
もうほとんど目を開けない母が、私の弾んだ声に目を開けて、ドレスを見て微笑んで、また目を閉じた。看護師さんが、「あら、ストッキングは買ってきたとね?」と聞くので、「あ、そっか、忘れた」と言うと、看護師さんは、そわそわと落ち着かない私の目を真っ直ぐに見て視線だけで落ち着かせ、「そこのコンビニに売っとるけん買っておいで」と優しく教えてくれる。私は急いで病院の向かいにあるコンビニへ行き、母のためにちょっと高級なストッキングを、自分のためには普通の黒いストッキングを買った。もう買い忘れた物はないだろうか。
しばらくして、私がドレスを買ってきたことを聞きつけたシスターがやって来て、「あら、薄い紫色って素敵ねえ、紫色のドレスって聞いたから、紫はちょっと悲しい色なんじゃないかしらと心配したんだけど、これは全然悲しい色じゃないわねえ」と、ドレスの色にすごく感心していた。
それからは、代わる代わる看護師さんたちがやって来て、ドレスを見せてとせがむので、私はドレスをハンガーに掛け、いつでも誰でも母からも見えるよう、ロッカーの脇に誇らしく飾っていた。きれいなドレスの掛かった部屋は、華燭の典を迎えるための控え室のようにも見えた。
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撮影/白川青史