この世に生まれてきた以上私たちはいつか必ず死ぬ。親しい家族や友人を見送り、やがて自分が見送られる側になる。だから本書『ラストディナー 高齢者医療の現場から』(老寿サナトリウム/幻冬舎)に紹介されたエピソードは決して他人事ではない。
本書には8人の患者とその家族が登場する。患者はいずれも認知症や末期ガンといった治療の難しい病気を抱えた高齢者だ。彼らが人生最後の日々をどう過ごし、そしてどのように旅立ちのときを迎えたのか。これはそれぞれの看取りの記録であると同時に、患者とその家族、医療従事者の願いや想いが詰まった生の記録でもある。
人間という生き物は意外にしぶとくて、生命力が強い。患者本人の意志や適切なケアによっては、周囲から見放されていたような患者に思わぬ奇跡が起こることがある。胃ろうから再び自分の口で食事を取れるようになった人。寝たきりの状態だったのがトイレに行けるまでに回復した認知症患者。
ものを食べる、自分の力で身体を動かす、あるいは家族や友人と親密な時間を過ごす。どれもささやかなことではあるけれど、その効果はまるで魔法だ。生きる意味を失い、半ば死んだようになっていた高齢者の顔に輝きが戻る。
もちろん彼ら彼女らは高齢で、医療機関での治療・介護が必要な重い病気を抱えた患者たちだ。病気を完治させることも自宅に帰ることも難しい。ただそれでも人生最後の数年、数ヶ月をできるかぎり笑って過ごすことはできる。ある意味人間として理想の終わり方ともいえるのではないか。
自分の最期をどう締めくくるかというのは難しい問題だ。「1日でも長く生きたい」と願う人がいる一方で、「延命治療にはこだわらず最期まで自分らしくありたい」という人もいる。そのなかで超高齢社会の進行に伴い、注目を浴びているのが後者の考え方だ。
QOL(生活の質)をできるだけ保ちつつ、患者に最期まで穏やかに過ごしてもらう。実際そのような方針に基づいて終末期医療を行う医療機関も出てきた。その1つが本書の舞台・老寿サナトリウムである。
老寿サナトリウムは、長期療養が必要な患者を専門に受け入れる療養型病院だ。日本の医療制度では病院の設置した「病床」の種類によって患者の入院できる期間が変わる。たとえば急性期の患者を受け入れる「一般病床」の場合、90日以内に退院を求められてしまう。そのため症状が慢性化してしまったケースでは、看護・介護が必要な状態にもかかわらず患者は新しい行き先を決める必要に迫られる。
他の病床では受け入れができない慢性期の患者を受け入れ、看護・介護から最期の看取りまでを行うのが「療養病床」を持つ療養型病院だ。手術などの積極的な治療は行わないものの、投薬や検査、リハビリといった一般的な病院と同じような医療サービスを提供する。自宅や特別養護老人ホームで暮らすのが難しい重症患者やその家族にとって、最後の砦ともいえる存在である。
一口に療養型病院といっても病院の運営方針や雰囲気はさまざまだ。残念なことに、認知症の患者をベッドに縛り付ける病院や、必要のない延命治療を推進する病院もあると聞く。患者のQOLを重視する老寿サナトリウムのような取り組みはまだ一般的なものとはいえない。そのせいだろうか。病院で迎える「死」にはどこかマイナスのイメージがつきまとう。
最期まで自宅に留まることを望む高齢者は多いが、現実にはこうした願望が叶えられるケースは少ない。本書で引用されたデータによると自宅で息をひきとる高齢者は約1割。約8割は病院で死を迎えているのだ。しかし、そもそも自宅で死ぬのはそんなに幸せなことなのだろうか。本書に登場した患者たちのように、プロの医療・サポートのおかげで初めてQOLを取り戻せた例もある。彼らが自宅で同じような、穏やかな最期を迎えられたかどうかは疑わしい。
老寿サナトリウムの試みは、理想の死に方は1つではないことを教えてくれるものである。病み衰え死期の近づいた患者や家族は常に難しい選択を迫られる。このとき最善の選択肢が複数ありうるということ。それを知るだけで多くの人が精神的・肉体的に救われ、最期まで自分らしく生きられるようになるのではないだろうか。
文=遠野莉子
(老寿サナトリウム/幻冬舎)
誰もが迎える人生の最期。あなたはどのように迎えたいでしょうか?老寿サナトリウムでの笑いと喜びの絶えない暮らしには高齢者医療の目指すべき姿があります。そんな彼らの日常を紹介します。