「この坂を下ると白山通り。すぐ目の前は後楽園の遊園地だよ。通勤には御茶ノ水駅より水道橋駅のほうが近いかな。さぁ、先に降りちゃって。そうしないと降りられなくなるよ」
振り向いた金田さんに促されて、荷物を抱えてワゴンを降りた。
ビルの一階は玄関の横が車庫になっているが、かなりの狭さである。
金田さんが車をバックさせている間、私は路地に出てあたりを見回した。
金田さんの言ったとおり、建物の間に東京ドームホテルが見える。友人の結婚式で一回訪れただけなのに、なぜかよく知った場所のように感じてしまうのは、これがすっかり街のランドマークとなっているせいだろうか。
私がきょろきょろしている間に、金田さんは車幅ギリギリまでコンクリートの壁が迫るスペースに一発で駐車を決めていた。運転席の扉を細く開けてするりと抜け出してくる。
「金田さん、スリムですねぇ」
「この歳でそう言われてもなぁ」
金田さんは脂っけのない顔をくしゃっとさせて笑った。
その表情に私の緊張もするりとほどけた。
かつては満室だったという寮も、今では壁がひび割れた古い倉庫だ。
一階の奥が金田さんの住居、手前はかつて食堂として使っていた広い部屋だが、店から運び込まれたテーブルや椅子でいっぱいで、足を踏み入れる余地もない。すっかり埃をかぶり、いずれ使う日が来るかどうかも疑わしい有様だ。少なくとも私の店では使いたくない。
二階から上は各階三部屋ずつ六畳の部屋があるらしいが、二階はすべて備品で埋まっていて、私が与えられたのは三階の手前の部屋だった。
「申し訳ないけど、洗面所やお風呂は一階なんだ。僕と共用になっちゃうけど」
寮の頃からお風呂もトイレも共用だったが、入寮者が使っていた地下の広いお風呂やトイレ、一階の食堂に併設されたキッチンは水を止めているそうで、金田さんの居住区のものを使えとのことだった。
金田さんが掃除をしてくれたという私の部屋はさっぱりと片づいていた。
据え置きのベッドと棚以外の家具もなく、布団は金田さんから借りた客用布団である。午前中干してくれたのか、ふかふかと日向のにおいがした。
部屋の確認だけすると、抱えていた紙袋からバスソルトを取り出して一階に降りた。
今日のうちに最低限必要なものは買っておきたい。洗面用具に肌着などの衣類。とりあえずカードで当面の買い物は問題ないが、これから生活を立て直すとなると、改めて失ったものの大きさに愕然とする。
今は目先のことだけ考えようと、不安はことごとく頭から追い出した。
「金田さん、バスソルト、お風呂場に置いてもいいですか。よかったら金田さんも使ってください。疲れが取れますよ」
ホウキで玄関先を掃いていた金田さんは、嬉しいような恥ずかしいような顔で「いいの? ありがとう」と言った。
「出かけるの?」
「はい。何もないので、必要なものを買いに行ってきます」
「ああ、だったら白山通りに出て、後楽園駅のほうに行くといいよ。ねぇ、これを見てごらん」
金田さんは私を手招いて、玄関先の小さな花壇を指さした。コンクリートの基礎部分がそのまま張り出したような小さな花壇からひょろっと細い幹が伸びて、青銀色の細かな葉をびっしりと付けている。
「これ......」
「そう。ギンヨウアカシア、ミモザの木だよ。細っこいけど春にはちゃんと花を付ける。南雲店長の名前、みもざちゃんって言うんだってね。今日、涌井さんから聞いて初めて知ったよ」
「普段は名前なんて呼びませんからね。本社の会議で店長って呼ぶと、みんなが振り向きます」
「本社の会議は、各店の店長しか出席しないもの」
金田さんは楽しそうに笑い、「みもざちゃんかぁ。いい名前だねぇ」としみじみ言う。
「おばあちゃんが付けたらしいです。おばあちゃんの家にも大きなミモザの木があって、大好きだったみたいですよ」
「僕のカミさんみたいだ。カミさんも好きだったなぁ」
金田さんは目を細めてミモザの枝を見つめていた。これからのことを思うと不安しかなかったが、ようやく少し楽しみを見出せそうな気がした。