【第1回】「こっちに来ないで」近づくサイレンの音。真夜中に目を覚ますと、焦げ臭いにおいが...
そこは、疲れた心をほぐして明日への元気をくれる大切な場所ーー。火事で引っ越しを余儀なくされた、チェーン系レストランの店長・みもざが訪れたのは、住宅街の路地裏にある小さなビストロ。この店の常連になってから、彼女の心はじんわり温まり...。『キッチン常夜灯』(KADOKAWA)は、美味しい料理とともに、明日への活力をくれる心温まる物語です。牛ホホ肉の赤ワイン煮、白ワインと楽しむシャルキュトリー、ジャガイモのグラタン...寡黙なシェフが作る料理と物語をお楽しみください。
※本記事は長月 天音著の書籍『キッチン常夜灯』(KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。
火事から一週間が経った。
これまでとは勝手の違う生活に、疲労もいよいよピークに達していた。
「ファミリーグリル・シリウス」はお手頃価格の洋食店である。メインターゲットはファミリー層だが、低価格帯のため、どこの店舗も午後になると学生やお年寄りの恰好のたまり場にもなっている。けれど、席が埋まっているというだけで、一日中忙しいということはめったにない。
と、思っていたが、私が店長を務める「浅草雷門通り店」はまったく違う。場所柄外国からの観光客が多く、開店するとずっと満席が続く。何も日本まで来てハンバーグなど食べなくてもと思うのだが、どうやら仲見世あたりで和スイーツを堪能した後には、ハイカロリーな洋食が食べたくなるらしい。
多い時で客の七割を外国人が占めるというのに、一人も語学堪能なスタッフがいないというのも悩みの種だ。もっとも店内には様々な言語が飛び交っていて、英語さえ堪能なら何とかなるというものではない。
「店長、見ました? 八卓のお客さん。レスラーみたいに腕がごついですよね」
「大村さんだったら持ち上げられちゃうかもね」
人懐っこい学生バイトの大村さんに応じながら、私はそっとため息をつく。
もしも何かあった時に、女店長の私にいったい何ができるというのだろう。力でかなうわけもないのに、毅然とした態度など取れるはずがない。この不安は私が店長に任じられた二年前からずっと続いている。
店長は店の責任者。何か起これば前面に出て対応しなくてはならない。
レジのトラブルや、こちらに非があるクレームの処理なら、さすがに入社十二年目となればそれなりに対応できる自信がある。
けれど、明らかにいちゃもんとわかるようなクレームや、お客さん同士のトラブル、犯罪がらみの面倒ごとに対応できる自信など皆無だ。
日々、少ないスタッフのやりくりに頭を悩ませながら、そんなトラブルが起きないように祈って過ごしているのが私である。
これでは、大村さんのように大学生活を謳歌するアルバイトに「店長、いつも疲れているね〜」などと言われるのも無理はない。そもそもタメ口をきかれるのも、私に店長としての威厳がまったくないからに違いない。
こうして毎晩、レジを締める頃には心身ともに消耗している。
ラストオーダーは十時、閉店は十時半だが、どんなに急いで片づけても、店を出るのは十一時を過ぎてしまう。
その夜、水道橋駅に帰りつくと、遅い時間にもかかわらず駅の周辺は賑わっていた。
東京ドームでコンサートでもあったらしい。この街はイベントがあるたびに興奮冷めやらぬ人が溢れ、疲労困憊の私にはその熱気が少し煩わしい。
空腹だったものの、その熱気から早く遠ざかりたくて、わき目も振らずに外堀通りを渡った。今夜も風が強く、ふっと火事の夜の記憶が頭をかすめる。あれ以来、どこかでサイレンの音が聞こえるだけで身構えるようになった。