そこは、疲れた心をほぐして明日への元気をくれる大切な場所ーー。火事で引っ越しを余儀なくされた、チェーン系レストランの店長・みもざが訪れたのは、住宅街の路地裏にある小さなビストロ。この店の常連になってから、彼女の心はじんわり温まり...。『キッチン常夜灯』(KADOKAWA)は、美味しい料理とともに、明日への活力をくれる心温まる物語です。牛ホホ肉の赤ワイン煮、白ワインと楽しむシャルキュトリー、ジャガイモのグラタン...寡黙なシェフが作る料理と物語をお楽しみください。
※本記事は長月 天音著の書籍『キッチン常夜灯』(KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。
プロローグ
風が強い夜だった。
窓の外の大通りを人々が通り過ぎていく。煌々とした店内の明かりに引き寄せられて、何人かは来店してくれてもよさそうなものだが、まったくの素通りである。
私の勤務先、「ファミリーグリル・シリウス浅草雷門通り店」は、ラストオーダーを待たずに早くもノーゲスト、つまり一人のお客さんもいなくなってしまった。
それも無理はない。この冬最強の寒波がやってくると世間は騒いでいる。
よし、今夜は早く帰れそうだ。
私には店の売上よりも、そちらのほうがよほど嬉しかった。
洋食店「ファミリーグリル・シリウス」は東京と神奈川に店舗を構えるチェーン店である。私が浅草の店舗に異動してきて今年で六年。それまではちょっとオシャレな湾岸エリアの店舗で、タワーマンションの住人がメインの客層だった。
それが一気にシブい下町の店舗である。もちろんチェーン店だから店の雰囲気やメニューは変わらないが、客層はがらっと変わった。
地元住民よりも観光客のほうが圧倒的に多く、とにかく毎日忙しい。通勤の便を考え、曳舟の単身者向けマンションに引っ越したのは大正解だった。こう毎日クタクタでは、とても長時間電車に揺られるのは耐えられない。
こんな寒い夜は少しでも早く帰り、久しぶりにお風呂にお湯をためてゆっくりと温まりたい。
帰宅すると、すぐに給湯ボタンを押した。
選んだバスソルトはラベンダー。マンションの狭い脱衣所には、リラックスや安眠の効果を謳った入浴剤が並んでいる。どれも効いたためしはないが。
とはいえ、温まった体でベッドにもぐり込めば何やらゆるゆると力が抜け、奇跡的に眠りの尻尾を摑みかけていた。
相変わらず風が強い。ガタガタと窓が鳴り、どこか遠くで空き缶が転がっている。
向かいの公園の常緑樹がザワザワと騒ぎ立てる音に、不穏な予感が湧き上がってくるのを無理に抑え込む。ここで意識を冴えさせてしまっては、せっかく摑んだ眠気を手放してしまう。
大丈夫。眠れる。眠れる。今夜こそしっかり眠るんだ。
そこで意識は途絶えた。