火事で自宅は水浸し。ほとんどの持ち物を失って「倉庫」と呼ばれる会社の寮へ/キッチン常夜灯(2)

涌井さんはすぐに倉庫の管理人と連絡を取り、使える部屋があるか確認するとともに、他の支店の社員にヘルプを要請し、私が早退できるよう手筈を整えてくれたのだ。こういう時、チェーン店で働いていてよかったと実感する。  

涌井さんはご丁寧に、倉庫の管理をしている設備部の金田さんを迎えによこしてくれた。  

マンションから持ち出す荷物があると考えたようだが、部屋を見るまでもなく、私にはすべてが水に浸かっていることがわかっていた。  

とはいえ、金田さんは気を利かせてゴム長靴まで持ってきてくれたので、恐る恐る、およそ半日ぶりの我が家に足を踏み入れた。  

惨状を目にしたとたん、不覚にも涙がこみ上げた。  

台所もクローゼットも、すっかり黒ずんだ水に浸っていた。  

いつかは着る機会もあるだろうと衝動買いしたワンピースのタグは外されぬまま水にふやけ、ボーナスをはたいて買った牛革のバッグはシワシワになっていた。いくら家財保険が下りたとしても、これらを手に入れた時の喜びは戻ってこない。  

水濡れだけでなく臭いも染みついていて、愛用のマグカップさえ、念入りに洗ったところで使う気にならないだろう。たとえ寝に帰るだけの部屋とはいえ、就職してからの私のすべてがここには詰まっていた。  

大家さんとはこれらの品の廃棄についての相談が必要になるはずだ。しかし、とりあえずは当面の生活の拠点を確保しなくてはならない。  

最低限必要な書類を探しだすと、ふと思い出して浴室のバスソルトのボトルをいくつか袋に突っ込んだ。ますますしばらくは眠れそうにない。

金田さんの運転はびっくりするくらい丁寧だった。

「運転、お上手ですね」と言うと、「彼女を乗せているからね」などと笑った後、「あっ、セクハラかな」と慌てる様子がかわいらしい。  

設備部の金田さんは、度々グラスや皿などの備品を積んで支店間を行き来している。そのためにこういう運転が身についたらしい。

「私、金田さんが倉庫の管理人だなんて知りませんでした。しかも倉庫が昔、寮だったというのも初耳です」  

金田さんは、普段は本社にいる。店の設備に不具合があるたびに呼び出しているので、私にとって総務部の涌井さん同様、頼りになる存在だった。

「備品を管理しているのも設備部だからね。そもそも昔は僕が寮夫だったんだよ。カミさんと住み込みでさ。景気が良かった頃はウチの会社も社員がたくさんいて、地方から出て来る若い子も多かった。社員寮はいつも満室だったよ」  

私は「ファミリーグリル・シリウス」がすっかり勢いを失ってから入社した。  

経営母体である株式会社オオイヌは、現在の東京、神奈川だけの展開でなく、関西にまで支店を持っていたのだ。星の数ほどある飲食店にすっかり埋もれてしまった今では、想像するのも難しい。  

ハンドルを握りながら金田さんの昔語りは続く。ベテラン社員が自主退職などですっかり減った今、こういう話を聞く機会は貴重だから興味深い。

「懐かしいなぁ。今はその頃に比べて店舗数も社員もほとんど半分だよ。寮を維持できる状況じゃなくなって、閉鎖されたのは十五年くらい前かな。まぁ、自社物件で場所もいいし、閉店した店舗の備品は他店で使えるから保管しておこうってことで、そのまま倉庫として使っているんだ。僕も寮夫から設備部に所属が変わったけど、やっている仕事は前とあまり変わらないかな」

「たまに不要になったものを倉庫に送っていましたけど、正直に言うと、倉庫がどこにあるのか知りませんでした」  

送るといっても宅配便ではなく、食材を納品に来る自社工場のトラックに渡せば、倉庫へと運んでくれる。住所など書く必要もないのだ。  

車は隅田川を渡り、都心へと向かっている。  

本社の所在地は千代田区で、神保町の一号店のほか、新宿や池袋にも店舗があるのだから、かつての寮が都心にあるのも納得だった。  

金田さんは、寮が閉鎖となった直後に奥さんを亡くしたという。辛いことが重なって大変だったよと金田さんは笑ったが、その当時はとても笑えるような状況ではなかっただろう。今も倉庫の管理人としてかつての寮に住み続けているのは、会社もそのあたりの事情を汲んだからかもしれない。  

日頃から、何かと店の不具合があるたびに、フットワーク軽く浅草まで来てくれる金田さんには常々感謝をしていたが、寮夫だったと聞いて妙に腑に落ちるのだった。

「もうすぐだよ」  

運転席の声に顔を上げると、窓の外には大きな病院が見えた。連なる建物の間を走り抜け、道はいつしか入り組んだ路地へと入り込んでいる。  

時間にして三十分も走っていないが、すっかり知らない場所に来たようで急に心細くなった。

「それにしても災難だったよね。まぁ、倉庫だし、色々と不便はあると思うけど、気軽に何でも相談してよ。はい、到着」  

文京区本郷、ビルやマンションが立ち並ぶ路地だった。車は四階建ての細長いビルの前に止まっている。周りも似たような建物ばかりで、明日の夜は無事に帰りつけるのかとますます不安になった。

 
※この記事は『キッチン常夜灯』(長月 天音/KADOKAWA)からの抜粋です。

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