オリジナル曲も少しずつ増えてきた頃、偶然目に留まった「池袋手刀(チョップ)」という新しいライブハウスにデモテープを持って行った。2002年、僕たちの結成のすぐ後にできた池袋北口にあるライブハウスだ。普段だったら近寄らないエリアだが、面白い名前だし、「新しいならきれいそう」という理由だけで選んだ。
イメージしていた通り、小さなマンションの一室に並んだテーブル、タトゥーの入ったドレッドのスタッフの方が、物静かに僕たちのテープを受け取り、その場で聴いてくれた。最初に作ったデモの打ち込みとは程遠い、再現できているかどうかも分からないいびつな演奏だ。音が流れているはずの事務所内に静寂を感じていたのを、今でも強く覚えている。「今もしかしたらここは無音なのか」と思うくらい、僕たちのデモは誰にも聞こえていないようだった。
ドレッドのお兄さんは、聴き終わると「僕、面白いと思います」と淡々と言った。「面白い」という言葉の温度感が、そこにはあまり感じられないほどドライに。見かけによらず優しい言葉をかけてくれたように思ったが、数年経ってからその頃のことを聞くと、本当に何かの可能性の欠片を感じてくれていたみたいだった。その後、そのドレッドのお兄さんこと堀井さんは、各地方のライブハウスに電話をして僕たちのブッキングをし、ライブハウスで働きながら僕たちと共に幾度のツアーを回ってくれた。ちなみに各地のライブハウスでやたらと見かける凛として時雨のステッカーは、ほとんど堀井さんが貼ったものだ。おかげで当時、「ステッカー見ました!」とよく言われた。「スクール水着345」という謎のステッカーを作ったのもこの人だ。
詳しくは後述するが、僕が突然自分のメロディーラインを1オクターブ上げたことによって、今の切り裂く高音のボーカルスタイルが確立された。だけど、実際その過程では裏返ることの連続で、果たしてそれが音楽的に成立しているのかどうかすらもまだ分からない状態だった。何度もスタジオに通い、録音をして自分のイメージにどの程度近付けたかを確認する。いろいろなものが変わったとしても、出した音に対して、それが求めているものかどうかをシビアにジャッジする癖は今も変わらない。ほんの少しだけでも理想に近付けたときは心が震えるし、そうじゃないときは、何がそうさせているのかを脳がすり減るほど繰り返して考える。狭いリハーサルスタジオの上に吊るされている2本のマイクが、横に置かれたミキサーという機械に繫がれ、僕たちの練習の音がテープやMDに録音される。空間に鳴っている音が収音されたその曖昧な音源だけが、あのときの自分たちを測るたったひとつのバロメーターだった。
僕たちが最初にイメージをして、音と共に創り上げた凛として時雨になるまでのスピードは、繰り返し行った練習量に比べると、とても遅く感じていた。僕にしては妙に明確にスタートラインが見えていたからこそ、学生である自分の期限に対し、焦燥感に苛まれていた。誰の演奏が軸になるわけでもなく、最初に作った楽曲のデモの足元に這いつくばるので精一杯だった。
時間的なものだけではなく、歌うこととギターを弾くことが、同時に脳内で処理されることへの戸惑いもあった。意識では同時に処理をしようともがくが、手元も、足元も、口元も、すべてがオーバーフロー寸前だった。焦りや綻びを生み出しているのが自分自身だと確信していたからこそ、僕がギターボーカルとして〝1/3〞になれるまでの時間は恐ろしく長く、コンプレックスを簡単に裏返すこともできない中でもがき続けていた。
3人とも限界を超えているはずなのに、理想へはまったく近付いていないような感覚が、ひたすら繰り返されていた。
バイト、学校、練習スタジオが目まぐるしく交錯する中、「池袋手刀」での初ライブを経て、そこからさまざまなライブハウスに出演するようになっていった。
ライブを重ねていく中で、3人の音に対する欲求は、よりリアルなものになっていく。重力に従っていたのか、逆らっていたのかすら分からないほど充実し、喪失し、無心に自分が作り上げた理想像を追いかけていた。少し階段を登っては、その場所から見える3人の景色を確認しながら、上へ、もっとその上へと目指していく。
あのときの貪欲さは異常だっただろうか。結成から一年が経った頃にようやく〝0〞から〝1〞になりかけていた僕たちは、明らかにそこから停滞していく。まっさらな紙がスーッと水を吸収していき、いつの間にか満杯になってしまった僕たちは、もう何も吸収できずに溢れてしまうようになった。少なくとも自分の目にはそう映っていた。
音楽の形を「音楽ができている喜び」だけでは満たすことができず、幾度もの話し合いを経てドラマーは脱退した。時間をかけて何度も死と再生を繰り返すかのように、互いに痛みを伴っていたと思う。覚悟を決めた決断だった。
メンバー脱退の先に上手くいく保証なんて何もなかったが、自分の音楽が僕を待ってくれないような気だけが強烈にしていた。濃密に人と、音楽と、自分の人生の岐路が絡み合い、思考も心もボロボロになりかけていた。
僕は、自分の音楽を信じている自分を信じてみた。直感か、勘か、ただ目の前に見えている真実をすくい取るだけで精一杯だった。
脱退前に決まっていたイベントの主催者へ、急遽出演キャンセルの旨を謝罪と共に連絡する。「じゃあ俺に叩かせてほしい」と申し出てくれたのが、主催者として僕が連絡を取っていた中野君だった。その少し前、突然メールをくれて「六本木Y2K」のライブに現れたのが初対面。まだステージ上で片付けをしている最中に元気良く話しかけてきた、妙に大きなダッフルコートを着ていた人物だ。
そうなることが運命だったかのように、新体制への準備は進んでいく。僕が働いているスタジオで初めての音合わせが行われた。中野君のあまりの手数の多さに、僕と345には衝撃が走る。その衝撃が薄れるほどスティックを回す斬新なプレイスタイル。
まだあのときはトライアングルとしてはいびつだっただろうが、探しても手に入らないような光が射し込んだ瞬間だった。奇跡にはまだ続きがあったようだ。
自由自在にスティックを操る中野君は、「ピエロみたい!」と感激した345の言葉を経て、「ピエール中野」という名前にさせてもらった。凛として時雨を決定づけるピースが、突然僕たちの元に引き寄せられた。