人は一人では「人間」にはなれない。他者と自分の捉え方とは/岸見一郎「老後に備えない生き方」

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「他者に生かされる」。人間関係の悩みは尽きないものですが、同時に生きる喜びの源泉でもあります。自己と他者との関係を、岸見さんはどのように考察されたのでしょう――。

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他者との結びつき

他者は往々にして自分の行く手を遮る。何かしたいことがあっても、反対されたり意見されたりすると感情的な摩擦が起きないわけにはいかない。

子どもの頃、何か親に意見されたり、反対されたりしたことがある人は自分が親になった時にはそんなことは決してするまいと決心していたはずなのに、自分の子どもに同じことをしてしまう。

親子関係でなくても、他者と関われば、何らかの形で摩擦が起きる。

他の人が自分の領域に土足で踏み込んでくる。

自分はそういうことはしないでおこうと思っても、立場が変わると他者の考えや生き方に寛容にはなれず、口を挟んでしまうことがある。

そこで、このようなことにならないように、他者は自分の期待を満たすために生きているわけではないということ、他者は支配することも所有することもできないことを、少なくとも自分はしっかり意識する必要があることを前回(『支配も所有もできない「他者」とはなにか?』)見た。

だが、対人関係において、他者は自分の中に否定的に介入するのではなく、他者との関係で自分を見出し、他者によって生かされているという肯定的な面がある。

この他者との肯定的な面について理解するために、三つのことを知っていなければならない。

他者の他者

まず、他者は自分の世界にある影のような存在ではなく、また、「もの」でもないことである。

ふと人の視線を感じて目を上げると、人ではなくマネキンだった。人でなければ恥ずかしいと思う必要はない。

何が違うのかといえば、他者の中に自分と同じ主観性を見るからである。

つまり、他者は鏡のようにただ外の世界を映しているのではなく、映ったものを受け止めて解釈し何かを感じ考える存在だからである。

そのような他者に見られていたと思うから恥ずかしいのだ。自分はその時、「他者の他者」になる。

哲学者の波多野精一が「人格」の成立について、次のようにいっている。

窓に寄りかかって道行く人の姿を眺めているとする。

その時、目に映る人は「人」とは呼ばれているけれども、厳密にいえば、「人」ではなく「もの」である。

ところが、その中の一人が立ち止まって、振り返った。

彼が口を開いた。

その人はわが友だった。

その人と言葉が交わされる。

この時、「人格」が成立したのだ(波多野精一『宗教哲学』)。

相手役としての他者

次に、他者は「相手役」として存在することである。

人は一人で生きているのではない。

その言動はいわば真空の中で行われるのではなく、その言動が向けられる「相手役」がいる(アドラー『人はなぜ神経症になるのか』)。

人の行為をものの運動と区別するのは、目的の有無である。

行為には目的があり、他者との関係の中ではその目的は対人関係的な目的である。

この目的は人によって違い、誰が相手役かによっても違うので、誰の前でも言動が完全に同じにならない。

仲間としての他者

第三に、他者をどのように見るかによって言動が変わるということである。

アドラーは、次のようにいっている。

「個人はただ社会的な(対人関係的な)文脈においてだけ個人となる」(『個人心理学講義』)

人は一人で生きているのではなく、「人の間」で生きている。

一人では「人間」になることはできない。さらに、次のようにいっている。

「われわれのまわりには他者が存在する。そして、われわれは他者と結びついて生きている」(『人生の意味の心理学』)

これはあまりに当たり前で、先の引用と同じことがいわれているように見えるかもしれないが、実は、対人関係のあり方について重要な意味が語られている。

他者が自分の世界に踏み込んできて、自分の行く手を遮る存在であると考える人にとって、他者は自分と結びついておらず、自分と対立、敵対している。

それにもかかわらず、アドラーが「われわれは他者と結びついて生きている」という時、人と人は対立しているのではなく結びついていることこそが、人の本来のあり方だと考えているのである。

(『支配も所有もできない「他者」とはなにか?』)に、アドラーが喜びは「人と人とを結びつける情動」であり、笑いはその要石であるといっているのを見た(『性格の心理学』)。

誰かが笑うとその人の喜びはまわりの人に伝染する。

その時、その場に居合わせた皆が一体となったと感じる。

困難な状況にある時、その困難を克服するためには真剣でなければならないが、深刻になっても解決しない。

一体感こそが協力して問題解決に向かわせる原動力になる。

ドイツ語には Mitmenschen(ミットメンシェン)という言葉がある。

アドラーが著作の中で使うこの言葉を私は「仲間」と訳しているが、これは人(Menschen)と人とが結びついている(mit)という意味である。

実際には、他者を敵と見なす人は多い。

他の人は隙あらば自分を陥れるかもしれない怖い人だ、と。

こちらはドイツ語ではGegenmenschen(ゲーゲンメンシェン)という。

人と人とが対立している(gegen)という意味である。

問題は他者を敵だと見てしまうと、他者に協力しようとは思わなくなることである。

一人では生きられないのは生まれて間もない子どもだけではない。

誰もが病気や加齢のために、それまでできていたことが突然、また少しずつできなくなる。

その時、他者を援助したいし、自分ができなくなった時、援助を受けたい。

そのためには、人と人とが結びつくという意味で他者を仲間と思えなければならない。

そのように思える人は、今、自国や世界で起こっている不幸な出来事も、他人事、対岸の火事ではなく、自分の問題として考えることができるのである。

生きる希望

人はこのように他者との結びつきの中で生きているのだが、その他者から生きる希望を与えられる。

私は心筋梗塞で入院した時、仕事を失い、これから先のことを思うとただ絶望するしかなかったが、そんな時に、私に生きる希望を与えてくれたのは家族や見舞いにくる友人、また医師や看護師だった。

病気で倒れた時に、非常勤講師をしていたある学校はすぐに私を解雇した。

次の週に出講できない講師の復帰を待てないという判断だったのだろう。

私にとってありがたかったのは、同じく非常勤講師をしていた別の学校には解雇されなかったことである。

少しよくなって、病院の中にある公衆電話から学校に電話をかけたところ、電話に出た先生は私に「どんな条件でも必ず戻ってきてほしい」といった。

このようにいわれた時、私はこの先生から生きる希望を与えられた。

四月に入院し一カ月で退院したが、六月には教壇に立っていた。

病気というような非日常的な経験でなくても、常の生活においても人は自分だけで完結しているのではない。

幼い子どもたちは親の援助がなければ生きていけないが、ただ援助を与えられるだけの存在ではなく、まわりの人に与える存在でもある。

何を与えるのか。生きる希望、幸福である。

認知症を患っていた父が施設で暮らしていた時、父は、施設を時折訪問する近くの幼稚園の子どもたちを見て相好を崩した。

父は子どもたちに生命を吹き込まれたのだ。

先に見たように、人は一人では「人間」にはなれない。

他者と自分は結びついている、つまり他者は仲間であると思えることが自分を生かすことであり、その意味で自分は他者に生かされているのである。

ぜひ、じっくりと読んでみてください。岸見一郎さん「老後に備えない生き方」その他の記事はこちら

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2019年12月号に掲載の情報です。

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