哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「他者との共生」。人間関係の悩みは尽きないものですが、同時に生きる喜びの源泉でもあります。自己と他者との関係を、岸見さんはどのように考察されたのでしょう――。
行く手を遮る他者
小学生の時、人はいつかは死ぬのであり、今感じていることも考えていることもすべて無に帰するのではないかと思った時、何もかも虚しくなってしまい、生きる気力が失せてしまった。そのことが後に私が哲学を学ぶきっかけになったのだが、実はもう一つ私の心をとらえて離さない大きな問題があった。
私がこの世界に存在しているのは確実だが、はたして他者もこの自分と同じようにこの世界に存在しているのか。
こんなことを考え始めたのだ。
この問題が、例えば、数学の問題であれば、たとえすぐに答えが出なくても時間をかけて粘り強く考えればいい。答えが出なくても、自分の人生に何か影響があるわけではない。
しかし、他者はじっとしているわけではない。
他者は私の世界の中へ侵入してくる。他者は存在するのかどうかという問いに答えが出ようが出まいが、自分の行く手を遮る。この厄介な他者にどう対処するか考えなければならない。
多くの人が子どもの頃に経験したことがあると思うが、自分がしたいことがあっても、親は必ずといっていいくらい子どもがすることに反対する。
この場合、親が行く手を阻む他者である。
今日学校に行く、行かないということまで子どもに決めさせない親もいる。
入学や結婚、就職のような人生の一大事であればなおさら、そのような親は黙ってはいない。
親の反対を押し切って結婚しても、好きで結婚した人のはずなのに、その生活が結婚する前に描いていたのとはまったく違うものになってしまうことがある。
一人で気ままに生きるのとは違って、誰かと共に暮らしていれば、いつも考えが一致するわけではないので、したいことがあっても、相手が自分の行く手を遮り、そのため喧嘩をすることにもなるからだ。
このようなことを考えると、アドラーが「あらゆる悩みは対人関係の悩みである」といっているのは、まことに至言だと思う。
とはいえ、私はいつもこのアドラーの言葉に続けて、「対人関係は悩みや不幸の源泉だが、生きる喜びや幸福の源泉でもある」という。
なぜ長く付き合っていた人と結婚しようと決心できたのか。
この人と一緒になれば、きっと幸福になれると確信して結婚に踏み切ったのではないのか。
結婚しても幸福になれないことがわかっていたら、結婚しようとは思わなかったはずである。
なぜ幸福になれないのか
しかし、そうはいってみても、望んでいたように幸福になれるかといえばそうではない。好きな人と結婚したからといって、自動的にそれだけで幸福になれるわけではない。
結婚に限らず、対人関係がうまくいくと思える人、さらには、この人生もうまくいくと思える人がいる。ただし、条件が必要である。
一つは、外的な条件である。
結婚するにあたって、相手が就職しており経済的に安定していなければ、大抵の親は結婚に反対する。仕事に就いていてお金があれば幸福になれると考えているのだ。
親が子どもに大学に行くように勧めるのも、この理由からであることが多い。子どもの方も大概そう思い込んでいる。だから、今は苦しくても我慢して勉強に励もうと思う。
しかし、このような外的条件が整っていても幸福になれるわけではないことは、少し人生経験を積んだ人であれば知っているだろう。
子どもの方も、やがて社会に出て行けば、受験勉強のつらさなど、ほんの序の口だったことに気づくのに時間はかからない。
もう一つの条件の方がさらに問題である。
人生を共にする相手が自分が思いもよらないこと、例えば、自分を裏切ったり自分の意に沿わないことなど決してしないと思い込んでいることである。
二人は愛し合って結婚したのだから、相手が今後、私が望まないようなことをするはずはないと確信しているのである。
親子関係でいえば、親は「私はこの子を愛し命がけで育ててきたのだから、子どもも私の愛に応えないはずはない」と思う。
この二つのことは一見無関係のようだが、そうではない。
お金があること、仕事に就いていることが無意味だとまでは思わないが、もしも相手が今の仕事を辞めるといったら、その時はたしてその決断を支持できるか考えてみなければならない。
私の期待は満たされない
かねてから夫に「自分の人生なのだから、自分の人生を生きてほしい」といっていた妻がいた。
ある日、夫が会社を辞めて帰ってきた。夫は当然自分の決断を支持してくれるだろうと思っていたが、妻はこういった。
「あなたがそんな人だとは思っていなかった」と。
この妻は夫を条件付きで愛していたにすぎない。
「私はあなたを愛しましょう、ただし、私の期待を満たしている限りは」。そういう条件である。
この妻の間違いは、夫が自分の期待を満たすために生きていると考えていたことである。残念ながら、他者は自分の期待を満たすために生きているのではないのだ。
親は、子どもが小さい時には、子どもの顔を見るだけでいつでも心から笑うことができた。
ところが、やがて子どもがハイハイをし、さらには立ち上がって歩き出すと、親は片時も子どもから目を離せなくなる。
子どもは手当たり次第に目についたものに触れ、掴み、投げる。もちろん、いつもそんなことばかりしているはずはなく、実際には、子どもは一日の大半を穏やかに過ごしているのだが、親を困らせるようなことをした時にだけ子どもに目を向けるので、子どもはいつも自分を苛立たせてばかりいると親は思ってしまう。
そうなると、以前は無条件にかわいいと思えたのに、子どもに苛立ち、そればかりか怒りをも覚えてしまう。
支配も所有もできない他者
なぜ、こんなことになるのか。
親は子どもを所有しており、支配できると考えるからだ。
そのように考える親は子どもを自分の思うように育てたいのだが、少しでも子どもと関わったことがある人であれば、そんなことは到底できないことを知っているだろう。
子どもは自分の思うようには育たないことに気づくのに時間はかからない。子どもは「もの」ではなく、当然のことながら、大人と同じように自由意志を持っているからである。
子どもを支配することも所有することもできないことに早く気づける親はまだしも幸いである。
問題は、いつまでも子どもは自分の言いなりになると信じて疑わない親だ。そんな親は子どもがいくつになっても子どもを支配しようとする。
何かのテレビ番組で、レポーターが「あなたは誰の子ども?」と三歳くらいの子どもにたずねているのを見たことがある。子どもは少し考えた後でこう答えた。
「お母さん」
もちろん、この答えは間違っている。子どもは母親の子どもではないからだ。
子どもがこんなふうに答えるのは、おそらく、普段から「あなたはお母さんの子ども」と教え込まれてきたからだろう。
親は「私」の子どもが従順であれば、すこぶる満足だろうが、いつまでも子どもを所有することはできない。小さな子どもであれば力ずくでいうことを聞かせることができても、いつまでもそうすることはできない。
もともと、子どもを所有することなどできないのだから、子どもが幼かった時にほんの少しの間だけ、子どもを所有し自分の思いのままにできると思っていたが、そんなことはできないことに気づくというのが本当である。
親とぶつかる子どもは幸いだ。問題は、親に逆らえない子どもである。
幸か不幸か、支配的な親に育てられた子どもの方も、親に逆らってはいけないと思い、自分の人生なのに自分の人生を生きていない。
そのような子どもは面と向かって親に反抗しない。
自分だけが不利な目にあうように仕向けたり、自分の身体を痛めつけて親に反抗する。学校に行かなくなったり、心の病気になるというようなことである。もちろん、そんなことをする必要はない。
自分が自分のために自分の人生を生きていないとすれば、誰が自分のために生きてくれるのだろうというユダヤ教の教えがある。
子どもに限らず、他者は誰も自分の期待を満たすために生きているわけではないのだ。
自分は他者の期待を満たすために生きているわけではない。
そう主張するのであれば、他者にも同じことを主張することを認めなければならない。