哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「過去を変えよう」。過去の記憶への向かい合い方、そして過去を手放す方法について、そして読者からの相談に対して、岸見さんはどのように考察されたのでしょう――。
※「」の太字部分が読者からの相談です
過去を手放そう
読者からの相談を見よう。
「結婚五十年を過ぎ、二人暮らしです。最近主人の過去がわかりショックを受けています。終活のために片付けをしていた時に夫宛の母親の手紙を見つけ、夫には昔付き合っていた人がいたことを知ってしまいました。以来、生きていく気力を失っています。これからは、何を心の支えとして生きていけばいいのでしょうか」
夫の過去を知ってしまったことは生きていく気力を失わせるきっかけにはなるが、生きていく気力を失うことになった原因ではない。夫の過去を知った時、誰もが同じようになるわけではない。どう対応するかは自分で決めることができる。
すべては、これから夫とどう生きていくかにかかっている。
今となっては、そこに書かれていたことが事実であれば、その過去をなかったことにはできない。その手紙を読まなかったことにはできないし、手紙を読んでショックを受けたという過去も消えるわけではない。しかし、ショックを受けなくてもよかったのではないかと、夫の過去を知った時の対応を見直すことはできる。
もしもこれまで五十年の結婚生活がよくなかったのであれば、夫の過去を知ることを生きる気力を失ったことの理由にすることができるということである。
しかし、この五十年は順風満帆な人生ではなかったかもしれないが、関係がよくなければ、もっと前に破綻していたかもしれず、五十年も一緒に生きることはできなかっただろう。これまでは「心の支え」だったのである。そうであれば、結婚前の彼に付き合っていた人がいたことが、五十年の結婚生活をふいにしてしまうほど重要な出来事なのか考えてみなければならない。
人は何かが原因で仲良くなるのでも、不仲になるのでもない。関係が悪くなれば、以前は相手の長所だと思っていたことが短所に見えてくる。優しい人が優柔不断な人に、頼り甲斐がある人が支配的な人に見えるというふうにである。相手が変わったわけではない。この人とは一緒に生きていけないと思った時、その思いを後押しするために、相手をそれまでとは違ったふうに見ようと決心するのである。そう決心すると、相手の短所、欠点、問題行動はいくらでも見えてくる。
かつて神戸で大きな地震があった時に、夫婦が共に瓦礫の下に埋もれてしまい、逃げ出せなくなったことがあった。その時、夫が自分を置いて逃げてしまったのを見た妻が「こんな人だとは思っていなかった」と落胆、失望、絶望し、ついに離婚したということが多々あったと当時の新聞が報じているのを読んだことがある。
この場合、二人の関係がよかったら、妻は「自分は瓦礫の下に埋もれて逃げられなかったけれども、夫は逃げられてよかった」と思えただろう。地震の時に同じ出来事を経験しても、それをどう解釈し、このようなことを経験した後どう生きていくかは、その出来事を経験する以前の二人の関係にかかっている。
たとえ、地震の前に関係がよくなかった二人でも、地震後生き延びられたことをありがたいと思えれば、これからは仲良く生きていこうと決心をすることができる。
この相談の場合も、これからも彼と共に生きていこうと思うのであれば、夫を責めてみても甲斐はない。過去を手放すしかないのである。いや、そんなわけにはいかない。悪いのは彼だ、私は正しいということを証明しても、彼がいなくなってしまったら意味がないではないか。
「子育てを終えてから、自分は親にあまりかまってもらえなかったことを思い出し、今さらですが自分の子ども時代を思い出すと不憫でなりません。この悲しい思いはどうしたらいいのでしょう。親にいっても、忘れていて余計に腹が立ちます」
悲しむことも、腹を立てる必要もない。
親はどの子どもも同じ思いで育てる。ただし、接し方がまったく同じにはならない。第一子は最初は親の注目、内心、愛情を独占できるが、弟や妹が生まれるとその王座から転落する。親は下の子どもに手がかかるので、それまでのように関われなくなる。親が第一子をかまわなくなる。そうなるのは親が子どものことがかわいくなくなるからではない。この子は多くのことを自力でできるようになったので、子どものすることに手出し、口出しをしなくていいと思うのである。
だから、かまわれなかったのではなく、この子は一人で生きていけると親から信頼されたのである。