教養として学んでおきたい「日本史」。でも「少しはみ出したエピソード」を知っておくと、とたんに話題が豊かになるかもしれません。そこで、オンライン予備校「スタディサプリ」の人気講師である伊藤賀一さんの著書『笑う日本史』(KADOKAWA)より、面白くてためになる、そんな日本史の話をご紹介します。
大人になっても少年の大志を忘れず!? クラーク博士のハチャメチャ経営術
クラーク博士は、アメリカで知り合った同志社の創始者・新島襄(にいじまじょう)の紹介を受け、日本政府からの熱烈な要請により、1876年、開校したばかりの官立札幌農学校(現在の北海道大学)に教頭として赴任しました。
1年に満たない赴任中は、自身が学長を務めたマサチューセッツ農科大学のカリキュラムを丸ごと取り入れ、諸学科を統合した教育を実施、学生の自発的な学習を促しました。新種の「クラーク苔(ごけ)」を発見するなど、学術的にも寄与しています。日本を去る時に見送りの生徒たちに残した名言「少年よ大志を抱け(Boys be ambitious!)」でも有名ですね。
クラーク博士、じつは大した学位は持ってないんですよ。それに、教頭という立場で、個別科目の指導に秀でているわけでもない。当時は知識の浅かった日本人相手に、なんでもかんでも教えることに。
とはいえ、学問的には実績を残していますし、日本の教育界に多大な貢献をしたことは間違いない人物です。一方で、とんでもなくだらしない一面も持っていました。それは、お金に関すること。クラーク博士、事業に失敗しまくっているんです。
農科大学に復職し学長を務めた後は、まず、洋上大学の開学を企画して失敗。これは、汽船に学生を乗せ世界を回りながら学ぶという計画でした。今ならかえって人気が出るかもしれませんが、資金が集まらないのも納得です......。
次いで、ニューヨークで知人と鉱山会社を設立します。当初は利益を上げ成功かと思われたのですが、共同経営者の知人が横領を繰り返したあげく、逃亡。そのせいもあり、会社は3年ほどでつぶれてしまいました......。その後も、会社の資本金を出資した叔父と裁判沙汰になり、敗訴。クラークの財産は叔父の手に渡りました。
哀れな甥を不憫(ふびん)に思ったのか、叔父は屋敷の権利や名義を自分の物とせず、クラークの妻に譲ったとされています。クラーク自身はその後、不遇のまま病に臥し、1886年に60歳で亡くなりました。
<MEMO>W.S.クラーク(1826~86年)
アメリカのアマースト大学に入学。その後、ドイツへ留学し化学と鉱物学を学んだ。母校で教授となり、当時、日本から無断渡航してきていた新島襄と知り合う。札幌農学校へは短い赴任であったが、自ら学生の模範となり指導にあたった。
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