教養として学んでおきたい「日本史」。でも「少しはみ出したエピソード」を知っておくと、とたんに話題が豊かになるかもしれません。そこで、オンライン予備校「スタディサプリ」の人気講師である伊藤賀一さんの著書『笑う日本史』(KADOKAWA)より、面白くてためになる、そんな日本史の話をご紹介します。
義経はルール無視の卑怯者!?しかもイケメンじゃなくブ男だった!
源義経(みなもとのよしつね)は、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の異母弟。『義経記(ぎけいき)』にあるように、味方だったはずの兄の頼朝から追われ、これまた味方だったはずの奥州藤原氏に攻められて自刃するという、悲劇のヒーロー的な描かれ方をされますが、義経は当時の武将としては卑怯者。しかもブ男。決してイケメンではない。
当時の合戦では、騎馬武者同士が名乗り合い、一騎打ちするのが本来の形です。それなのに義経は「やったもん勝ち」といわんばかりに、背後からいきなり集団で攻めてしまう。よく言えば、ゲリラ戦の名手だったということですけれど。
そもそも義経は、少年時代は京都・北山の鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、武士の子弟としての教育は受けていない。牛若丸と名乗り、いくら"天狗"(清和源氏の家臣でしょう)と修行したか知りませんが、野生児みたいなものです。
その後、奥州藤原氏の藤原秀衡(ひでひら)の下に身を寄せましたが、作法もあまり身につける機会がなかったし、武将としての戦のルールなんて、義経にとってはダルいものでしかなかったんでしょうね。意識は「負けたら終わり」。父の源義朝(よしとも)が平治の乱で敗れ、幼少時から苦労してきましたから。
兄、頼朝の下では中途採用。もしかしたら焦りもあったかもしれませんが。いずれにしても、彼はリアリストです。要は「勝てばいい」という考え方。
そんな戦い方ばかりしているわけですから、頼朝のようなカリスマ的存在になれるわけがない。源平合戦下ならまだしも、源氏が平氏を壇ノ浦の戦いで滅ぼした後なら、なおさらです。
そして、鎌倉幕府の成立前後は、上皇や天皇、摂関家のいる京の朝廷との行き来も盛んで、幕府側にも品格が必要でした。ところが、義経はルールを守らない。兄の知らないところで、後白河上皇(法皇)から官位を授かってしまったりなど、戦い方だけじゃなく、常識がないんです。
そんなルール破りばかりしていたら、そりゃ兄からすれば「こいつはもう用済み、ご苦労だったな」と消されちゃいますよね......。
<MEMO>
源義経(みなもとのよしつね―1159~89年)
兄・頼朝が挙兵すると奥州から参陣して積極的に戦に出向き、平氏打倒の最大の功労者となった。一方で、度重なる独断行動など、頼朝やほかの御家人の反感を買うことも多く、対立の後、奥州藤原氏の下に逃れたものの、藤原泰衡(やすひら)に裏切られ、衣川(ころもがわ)の戦いで落命した。
縄文時代~平成に至るまで100の「笑える」エピソードを網羅!「合コンは古代から行われていた?」(弥生~古墳時代)、「森鴎外は極度の潔癖症で、超斬新な饅頭の食べ方をしていた」(明治~大正時代)など、つい誰かに話したくなるエピソードが満載です