教養として学んでおきたい「日本史」。でも「少しはみ出したエピソード」を知っておくと、とたんに話題が豊かになるかもしれません。そこで、オンライン予備校「スタディサプリ」の人気講師である伊藤賀一さんの著書『笑う日本史』(KADOKAWA)より、面白くてためになる、そんな日本史の話をご紹介します。
負けまくっても結果オーライ。信長が天下に手をかけられた理由は?
織田信長(おだのぶなが)は、本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)に討たれてしまいますが、間違いなく天下に最も近づいた男。なので、連戦連勝、負け知らず......と思う人もいるかもしれませんが、じつは58勝19敗7分けの戦績。案外、負けまくっています。フィリピンやタイのボクサーみたいですね。
有名な負け戦といえば、1570年に越前国(現在の福井県東部)の朝倉義景(あさくらよしかげ)と争った金ヶ崎の戦い。敵の拠点を打ち破り進撃しますが、義弟の浅井長政(あざいながまさ)に裏切られ挟み撃ちに遭い、這(ほ)う這うの体で撤退します。部下もかなり失いました。
1577年の手取川の戦いでは、越後国(現在の新潟県)の上杉謙信の倍近い戦力を有しながら、多くの戦死者・溺死(できし)者を出す大敗を喫しています。また、負けてはいませんが、浄土真宗(一向宗)の石山本願寺とは、11年間も対立を続けたあげく、結局は和睦。
そもそも、戦の回数がほかの大名より多いから、負け数が多くなる。戦の回数が多いことは、野球でいえば、試合数が多いということ。それに戦国・安土桃山時代って、甲子園みたいなトーナメント戦ではなく、プロ野球のようなリーグ戦です。
信長が凄いのは、桶狭間(おけはざま)の戦い(1560年)や、長篠の戦い(1575年)など、「ここぞ」という戦いでは勝っていること。今川義元(いまがわよしもと)を破り、武田の騎馬隊を撃退すれば、天下に対するインパクトは絶大です。
負けが多いからって、信長の軍勢が弱かったわけではありません。信長は直属部隊としていつでも手足のように動かせる傭兵(ようへい)集団も抱えていたとも言われています。普通、戦国大名の家臣というのは半ば独立しており、地元では殿様扱いされ、自分の領地を持っているものです。例えば、集合をかけても主君の居城に全軍が集まるのは3日後、なんていうのが当たり前です。武田信玄などはその典型でした。
一方、信長は直属部隊を従えているので、招集をかければ即座に態勢を整えられる。それは、戦力上も、重臣たちに対する抑制上も、非常に大きなことでした。この説も最近は否定の声も大きいですが、まあ誰もタイムスリップできないので、何とも言えないでしょうね。
<MEMO>
織田信長(おだのぶなが―1534~82年)
尾張国(おわりのくに―現在の愛知県北西部)から勢力を拡大し、天下に手をかけた大名。勢力拡大の重要局面の戦ではことごとく勝利を収めた。中央付近を制圧後、北陸、関東、中国、四国地方などには重臣を派遣し、安土城を拠点に権勢を謳歌(おうか)した。
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