いまだから話せる高倉健さん「健さんが生涯貫いたチエミさんへの愛と、人生の終い方」(前編)

俳優・高倉健さんが亡くなって4年。昭和・平成を駆け抜けた名優の終(つい)の美学について、ルポライターの谷充代さんにお話を伺いました。

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人前でも健さんを「ダーリン」と呼んだ江利チエミさん。新婚当時(1959 年)の仲むつまじい2 人。(写真/共同通信)

 

健さんの唯一の後悔は、チエミさんとの別れ...

高倉健さんのそばで30 年間取材を続け、健さんから最も信頼を得ていた編集者、谷充代さん。「自分の眼で見たものだけを書けよ」という健さんとの約束を守り、今年、新たな一冊『高倉健の身終い』を上梓しました。

谷さんが健さんに初めてインタビューをしたのは、1985年。映画『夜叉』のロケ現場。健さんは日本アカデミー賞の主演男優賞を次々に受賞し、脂が乗り切っていた50代。谷さんは、30代の駆け出しのフリー編集者。当時を谷さんはこう振り返ります。

「取材依頼の手紙を書くと、お返事はいただける。でも、都合が合わないというものが多く、私はそれでも諦めずに、また手紙を書く。その繰り返しでしたね」

1904_p067_02.jpg谷さんが健さんに初インタビューしたときの写真(写真/渋谷典子)

「素顔の健さんは、映画『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』のイメージそのまま。マネージャーを付けず、自分で荷物を運ぶ健さんを手伝おうとした私に、『書くために来ているんだろう。そんなことはしなくていいよ』と言ってくれる、寡黙だけれど本当に優しい人でした。健さんに褒められたい。そんな思いから、古代紫のミヤコワスレの花など、健さんの好きなものを手土産にしながら、CMや映画の撮影現場を訪ねてはインタビューをすることが、私のライフワークになりました」

やがて谷さんは、健さんが1996~2000年までパーソナリティを務めたラジオ番組に関わるようになり、その番組を基にしたエッセイ集『旅の途中で』(高倉健著/新潮社)のプロデュースを担当。そのエッセイ集の巻末には、比叡山延暦寺の千日回峰行を2度成し遂げた故・酒井雄大阿闍梨(ゆうだいりあじゃり。2013年没)との対談も収録されています。

「健さんは、ラジオ番組での酒井大阿闍梨との対談をとても楽しみにしていました。誠実で真面目で迷いなど見せない健さんですが、唯一の後悔は江利チエミさんと別れたこと。その苦しさを誰かに話せたらいいのにと感じていました。私がそれを実感したのは、1997年の秋。CM撮影を終えてパリに入り、偶然にも40日前に帰らぬ人となったダイアナ元妃の事故現場を通ったときでした。健さんが急にふさぎ込んでしまったんです。

帰国してからも、自分のラジオ番組でダイアナ元妃をしのぶエルトン・ジョンの曲を流したほどでした。風が吹く中のキャンドルに元妃の人生をたとえた歌詞からは、突然逝ってしまった人への未練が切々と伝わってきます。

健さんは、私に一度だけチエミさんの死を口にしたことがありました。『その女性は別れてから十年、思いもかけずに亡くなりました。訃報を聞いた瞬間、ずいぶん昔に別れたはずの女性との本当の別れが来た、そう思いましたね。自分の心の中にやり残したものがあると気付きました』と...」 


※後編に続きます

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取材・文/丸山佳子 撮影/松本順子(谷さん、静物)

 

 

<教えてくれた人>

谷 充代たに・みちよ)さん

ルポライター。1953年東京都生まれ。白洲正子、三浦綾子などのルポルタージュの他、ラジオ番組を基にした『旅の途中で』(高倉健著/新潮社)をプロデュース。著書に『「高倉健」という生き方』(新潮新書)がある。

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高倉健の身終い

谷 充代著 角川新書 820円+税

国民的大スター高倉健を、50代から30年間にわたってインタビューしてきた著者が、健さんと、健さんを愛した多くの人からの証言を交えてあぶり出した、高倉健流の身終いの仕方。

この記事は『毎日が発見』2019年4月号に掲載の情報です。

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