いまだから話せる高倉健さん「健さんが生涯貫いたチエミさんへの愛と、人生の終い方」(後編)

俳優・高倉健さんが亡くなって4年。昭和・平成を駆け抜けた名優の終(つい)の美学について、ルポライターの谷充代さんにうかがったお話の後編です。

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チエミさんの訃報に接した健さんは黙して語らず、映画『南極物語』(1983 年公開)の撮影に挑んだ。スタッフとの友情が、大きな支えになっていた。(写真/大隈隆章)

 
健さんがやり残したもの。

健さんがやり残したものとは何だったのか? 谷さんは、その答えを見つけようと酒井大阿闍梨を訪ね、健さんの深い思いに触れて驚いたといいます。

「酒井大阿闍梨は、健さんと対談したときに、『死に別れても、一度結んだ契りはそうやすやすと切れるものじゃない』と言っておられた。その言葉は健さんの心の杖になっていたのだと思います。ある日私が比叡山に阿闍梨様を訪ねると、『せっかくやから』とお堂に案内してくださいました。そこで見せていただいたのは、健さんのお母さんと、チエミさんの位牌。

『僕は旅が多いので、手を合わせる機会もありません。こちらに置かせていただけますか』と、健さんが預けたそうです。別れたくて別れた2人ではなかったから、きっといまは天国で一緒ですね」

 
「寒青(かんせい)」のごとく生きる! を貫いた見事な幕引き

1998年、健さんは67歳で紫綬褒章を受章しました。そのとき、返礼用の扇に入れたのが、「寒青」の二文字。「凍てつく風雪の中で木も草も枯れているのに、松だけは青々と生きている」という意味の言葉で、健さんはエッセイ集『旅の途中で』の中でも、「一生のうち、どんな厳しい中にあっても、自分は、この松のように、青々と、そして活き活きと人を愛し、信じ、触れ合い、楽しませるようでありたい」とつづっています。

1904_p069_03.jpg健さんの故郷、福岡県の小松山正覚寺にある記念碑。健さんの好きな「寒青」の文字が、健さんの自筆で刻まれている。(写真/谷充代)

 
「『寒青』のごとく生きる。それが健さんの晩年の決意でした。1999年公開の映画『鉄道員(ぽっぽや)』では、冒頭で健さんの口笛が流れます。曲は、チエミさんが大ヒットさせた『テネシーワルツ』。撮影当時、チエミさんのことに触れないようにしてきたスタッフ全員が驚きました。でも、この口笛は、チエミさんのことを後悔で終わらせるのではなく、一生大切にしていくという健さんの決意。あのときから健さんは、一生涯高倉健として生きてゆく覚悟を決めたのだと思います。

昔、旅先で、『死にゆく時、愛する人にその姿を見せないでいく』と、健さんが語ってくれたことがありました。その言葉通り健さんは、最期の姿を見せることなく逝った。自分のクルーザーや、十数台の愛車も、親しい人の手ですぐに処分されたと聞いています。"自分が生きてきた痕跡を博物館みたいな場所でさらされるのは真っ平ご免。この世から葬り去ってほしい" と言わんばかりに。本当に見事な幕引きだったと思いますね」

誰しも、思う通りの幕引きはできないかもしれません。でも、健さんが愛した「寒青」のように、"かくありたい〟という晩年の指針を持つことは、大切なこと。名優、高倉健さんの身終いの中に、自分らしい幕引きのヒントがあるかもしれません。

取材・文/丸山佳子 撮影/松本順子(谷さん、静物)

 

 

<教えてくれた人>

谷 充代たに・みちよ)さん

ルポライター。1953年東京都生まれ。白洲正子、三浦綾子などのルポルタージュの他、ラジオ番組を基にした『旅の途中で』(高倉健著/新潮社)をプロデュース。著書に『「高倉健」という生き方』(新潮新書)がある。

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高倉健の身終い

谷 充代著 角川新書 820円+税

国民的大スター高倉健を、50代から30年間にわたってインタビューしてきた著者が、健さんと、健さんを愛した多くの人からの証言を交えてあぶり出した、高倉健流の身終いの仕方。

この記事は『毎日が発見』2019年4月号に掲載の情報です。

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