『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回はその11回目を掲載します。テーマは「人に頼ろう」。
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迷惑をかけるのでなく頼る
人に援助を求めてはいけないと思い込むもう一つの理由は、迷惑をかけてはいけないと思うことである。
延命治療を受けることを拒否し、まだ、自分で判断できるうちにと自ら命を断った人の話を聞いて痛ましい気持ちになったことがある。信仰上の理由や持続的な痛みを回避したいという思いからではなく、家族に迷惑がかかると考えての決断だからである。家族に迷惑をかけたくないという人は多い。
「最後までまわりの人に迷惑をかけることなく、身体もしっかり、頭もしっかりして、自分の身のまわりのことは自分でできるような人生を楽しく過ごしたいです」
「私は長生きは決して望みません。迷惑をかけない人生の終わり方はありますか」
私自身、親の看病や介護をした経験があるので、家族に迷惑をかけたくないという気持ちはよくわかる。しかし、迷惑をかけない人生の終わり方はないと思っておいた方がいい。迷惑をかけることを恐れるなといいたい。そもそも、子どもの世話になることが子どもたちにとって「迷惑」なのかは自明ではない。
「最近つくづく一人で頑張って生きなければならないと思う。人は頼ってはいけないな、と。皆それぞれ自分のことで精一杯なんだとまわりを見て感じています。72歳ともなると本当に身体に無理が利きません。でも、いろいろなことをこなしていかなければなりません。もう少し自分にパワーがあればと思います」
一人でできることであれば、人に頼らないのがいい。しかし、やがて「本当の意味で」体に無理が利かなくなる日がくるのである。加齢と共にできなくなることが増えれば、まわりの人に迷惑をかけると考えるのでなく、人に頼ればいい。頼られたいと思う人はいる。
「今は大丈夫ですが、認知症になった時、子どもたちに迷惑をかけないように今からしておけることなど教えてほしい」
この場合も迷惑をかけると考えてはいけない。迷惑をかけないことはないので、迷惑をかけないように今からできることを考えるのではなく、迷惑をかけることにはなるが、今から何ができるかを考えることはできる。
一つは、先にも見たように、今後、身体の自由が利かなくなったり、忘れることが増えても、そのことで家族に「迷惑」をかけることになるわけではないと理解することである。
私の子どもが小さい頃、病気になった時のことを思い出す。看病をつらいと思っただろうか。看病がつらいのではない。子どもが高熱で苦しんでいても、子どもに代われないことがつらいのである。
やがて子どもが元気になると、それだけで嬉しかった。子どもは親が徹夜で看病したことを知らない。もちろん、感謝することもない。それでも、そのことを親は不満に思わないのではないだろうか。
子どもは病気になった時、親に迷惑をかけたのではない。親に頼ったのだ。もちろん、頼ります」といって病気になったわけではない。しかし、病気になるということはまわりの人に全面的に頼るということである。頼られた親は、子どもの病気を代わることはできなくても、子どもの役に立てたと思える。病気と闘うのは子ども自身で、親はそばについているだけだったとしても。親が子どもの看病をした時の気持ちを言葉で表せば、貢献感である。
さらにいえば、子どもは親が貢献感を持てる貢献をしたのである。やがて介護されることになる自分もまた家族が貢献感を持てる貢献ができると思っていけない理由はない。
「悪いことをしたわけでもないのに、つい『ごめん』や『すいません』と謝ってしまいます。どうすれば直せるでしょうか」
友人と約束をして遅れた時に「ごめん」という人がいる。待っていた人はそういわれるとあまり嬉しくない。遅れたことを何とも思わないのは論外だが、こんな時は「待っていてくれてありがとう」といいたい。そうすると、待っていた人は貢献感を持てる。
この人は介護のことをいっているわけではないだろうが、介護されることも「悪いこと」ではない。だから謝る必要はない。「迷惑かけてごめん」といわなくていい。「ありがとう」といえばいいのである。
自分が親を介護することが大変だと思った人は、自分を介護する家族もそのことを大変だと思うだろうと考えるのである。だから、世話されることは迷惑をかけることになると恐れるのである。
食事の後片付けを嫌だと思う人がいる。他の家族は後片付けのことなど考えずにソファでくつろいでテレビを見ながら歓声を上げている。それなのになぜ私だけがしないといけないのだと嫌だ嫌だというオーラを漂わせながら食器を洗っていると、家族は誰も手伝わない。食器を洗うことは苦行、あるいは犠牲的行為であると家族に見せつけているのだから。
考えを変えたい。食器を洗うという行為は家族に貢献する行為である、と。食器を洗えば、貢献感を持てる。貢献感のある人は承認されようとは思わない。家族から感謝されようとされまいと気持ちよく食器を洗える。楽しそうに鼻歌交じりで食器を洗っていれば、その様子を見た家族が、そんなに楽しいのなら手伝おうかといってくれるかもしれないし、いってくれないかもしれないが、貢献感がある人にはどちらであっても大きな問題にはならない。
もう一つ今からできることは、介護をしようと思ってもらえる関係を築くことである。無論、そう思われるかどうかは介護する家族の課題であって、自分では決めることはできないのだが。そう思ってもらえるかは結果であって、介護しようと思ってもらえるためだけに今の関係をよくするわけではないが、今関係をよくしていけない理由はない。
親が介護を必要とするまでに関係をよくすることができなくても、介護は親子関係を変える力がある。たとえ過去に親との関係がうまくいっていなくても、親と過ごすことを通じて、親との人生を振り返るきっかけになるからである。
価値があると見ない
家族に迷惑をかけたくない、長生きしたくないと思うのは、何もできなくなった自分に価値があるとは思えないからである。そんな自分は家族に迷惑をかけてはいけないと思うのである。
「養父は、どんなに自分が粗相をしても失敗しても、人のせいなどにして絶対謝らないのです。誰にも好かれない孤独な人です。どうしたらいいのでしょう」
これは彼の劣等感である。できないことをできないといってもらえないと介護する側は困る。自力では排尿できないというようなことは決して恥ずかしいことではない。そのことで、自分の価値はなくならない。それなのに、以前は何も問題なくできたことができなくなると、自分には価値がなくなったと思う人は多い。
「仕事優先の日々、定年になって仕事がなくなった時に、どうするんだろう」
生涯、仕事一筋で生きてきた人は、仕事がなくなったら自分に価値があるとは思えなくなる。まして、身体の自由が利かなくなると、生きている価値がないとまで思う人がいる。エリート銀行員として現役時代を送ったある男性は脳梗塞で倒れ半身不随になった時、「こんな身体になってしまったら生きていても仕方ない、殺せ」と叫び続け家族を困らせた。
人に弱みを見せてもいいと思えること、人に援助を求めていいと思えるためには生産性に価値があると見ることから脱却しなければならない。小さな子どもの頃は何もできなかった。それでもまわりの人に与えられるものがあった。幸福である。何歳になっても子どもと同じようにまわりの人に幸福を与えられる人もいる。何もできなくても。
1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。