『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回はその9回目を掲載します。テーマは「課題の分離と協力」。
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前の記事「他者とのつながりの中で生きる時に、人に合わせてばかりいることはできない/岸見一郎「老後に備えない生き方」」はこちら。
課題の分離
ただし、どんなふうにでも働きかけていいのではない。嫌われないに越したことはない。あえて嫌われる必要などないのである。
まわりにいる人の人生に少しでも関心があるのなら、働きかけなければならない。本当に必要があれば助言しなければならないこともある。
それをどういうタイミングでするか、相手は受け入れる用意ができているか、あるいは、受け入れられる関係であるかによって、正論をいっていても、あるいは、正論であればなおさら受け入れられないことがある。
相手がどう思うかまで考えていたら何もいえないことになるが、このことをしっかりと押さえておかなければ、必要もないのに家族や友人から嫌われることになってしまう。
どうすれば家族や友人から嫌われたり、うるさがられたりしないでいられるだろうか。人の課題に踏み込まなければいいのである。
あることの最終的な結末が誰に降りかかるか、あるいは、最終的な責任を誰が引き受けなければならないかを考えた時に、そのことが誰の「課題」かわかる。
子どもがいつまでも結婚しないということで相談を受けることがあるが、結婚する、しない、結婚するとすればいつ、誰と結婚するかは、明らかに(といっていいはずだが、抵抗する人は多い)子どもの課題であって親の課題ではない。結婚してもしなくても、誰と結婚しても、その結末は子どもにだけ降りかかり、親に降りかかるわけではないからである。
およそあらゆる対人関係のトラブルは人の課題に土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こる。子どもが勉強しないので「勉強しなさい」といったことがある人は多いだろう。しかし、勉強する、しないは子どもの課題なので何もいってはいけないし、いえないのである。
子どもも勉強しなくてもいいと思っているわけではない。自分でも勉強しないといけないと思っているのに、親から勉強するようにといわれるのが嫌なのである。子どもが勉強しない時も、進学、就職、結婚などの人生の岐路に立たされた時も静観するしかないのである。
それなのに、なぜ子どもや孫の課題に口を挟みたくなるのか。子どもや孫が自力では自分の問題を解決できないと思っているからである。要は信頼していないのである。自分のことをいつまでも子ども扱いする大人はうるさがられたり、敬遠されるだろう。
読者の相談を見よう。
「癌といわない方がよかったのか。亡くなって三年が過ぎましたが、今でも後悔しています」
前回、別の文脈で引いた読者の相談だが、これを課題の分離との関連でもう一度考えてみよう。
私の母が脳梗塞で倒れた時、主治医から説明を受けた。今ならまず本人に告げるだろうが、その頃は最初に家族が説明を受けた。
予後はよかったので、すぐに退院できると思っていたのだが、医師の説明は期待を裏切るものだった。私は母が真実を知ることに耐えられないのではないか、本当のことを知ると不安になり、落ち込むのではないかと思った。だから、本当のことをいえなかった。母を信頼していなかったのである。しかし、当然のことながら、母は自分の病気について真実を知るべきだった。たとえ真実を知って動揺することがあっても、それは母が引き受けなければならない課題である。
「あなたの病気は治らないかもしれない」と告げることは、家族にとっては勇気がいることである。しかし、家族といえども、病気になった人の人生を代わりに生きることはできない。
自分の病気についての重い情報を誰もが決して担いきれないわけではない。できることは、相手が残りの人生を病気と共に生きるという課題に取り組めると信頼することである。
「養父を在宅で看取りました。家族、本人の意思ではありましたが、本当によかったのかと思うこともあります」
在宅治療を選んだのが本人の意思であればよかったと思う。後悔のない介護はない。
本人の意思を確認できない時は家族の負担は大きい。私は父の延命治療をするかどうかたずねられた。父はもはや自分で判断できなかったので、私が父に代わって答えなければならなかった。延命治療はしないと答えたが、それが父の意思だったかどうかは今もわからない。
共同の課題にする
このように誰の課題かをはっきりさせて他者の課題に踏み込まないといっても、他者の援助をすることが駄目だというのではない。むしろ、人は誰も一人では生きていけないので他者を援助し、協力して生きていかなければならないのである。自分もまた他者からの援助が必要である。
しかし、援助するためにはその前に糸がもつれたように誰の課題かわからなくなっているので、これは私の課題、これはあなたの課題というふうに課題をきちんと分けていかなければならないのである。
他者を援助しようと思うのなら、他者の課題に土足で踏み込んでいけないので、共同の課題にする手続きが必要である。
具体的には、例えば「あなたの結婚(就職)について話をしたいのだけど」と話を切り出してみるのである。もしも、話をしてもいいといわれたら、話をする。ただし、その際、決して、自分の考えを押し付けてはいけない。「私はこう思う」と自分の考え、意見であることをはっきりさせていわなければならない。
もしも断られたら「またいつでも力になれると思うのでその時はいってね」といって引き下がるしかない。
しかし、実際には、援助を求められても何もできず、助言を求められても何もいえないことはある。その時は率直に何もできない、答えはわからないというしかない。
それなら放っておいてくれたらよかったのにと相手が思うか、何も力になってもらえなかったけれど、自分のことに関心を持ってもらえたと思うかは普段からの対人関係のあり方による。
何の力にもなってもらえないと思われても、「この人を当てにしてはいけない」と相手が学べば自立に向けて援助ができたことになる。
「60 歳で離婚、再婚(すぐに病気で死別)。今は一人です。息子たちも独身で、離れて暮らしています。今後も離れて暮らすのがいいのか、同居してどちらかの子どもに生活を合わせた方がいいのか迷っています」
もしも元気で一人で暮らすのであれば、自分で決めればいいことだが、同居した方がいいかどうかは自分だけで決めることはできない。子どもの考えを聞かなければ、同居できるかわからない。親が勝手には決めることはできない。
今後もしも病気などで一人で暮らすことができなくなれば、同居しなければならなくなるかもしれない。そうなれば、離れて暮らすのがいいのかと考える余地はない。
その時も、元気な今も、それぞれの人生を生きる子どもたちと一緒に暮らそうと思うのなら、晩年をどう生きるかという自分の課題を子どもたちと共有しなければならない。
迷う必要はない。「私と同居してほしいのだけど」と頼むしかない。もちろん、断られる可能性はある。
課題に踏み込んでくる人
他方、他の人が自分の課題に踏み込んでこようとしたらどうすればいいか。
「自分の都合だけで人の生活に踏み込んでくる人とはどう付き合っていけばいいか」
はっきり断るしかない。私の課題なので放っておいてほしいということである。私の人生だから自分で決めるといえばいい。晩年の父が私に、自分の信仰する宗教へ入信することを勧めたことがあった。父がどんな宗教を信仰するかは父の課題なので、私はそのことに干渉するつもりはなかったが、私にまで勧めるので困ってしまった。親であっても、その気がなければ親に従う必要はない。
物品のセールスであれば話は簡単である。ただ、断ればいい。その際、理由をいわないことが大切である。理由をいえば、相手は期待感を抱き、さらに説得を試みるからである。今は買えないというようなことをいえば、ではいつだったら買えるのかとたずねてくるのは必至である。
ところが、相手が親だと断ったことが後々も尾を引くことはありうる。
私は父の信仰する宗教の話を聞くことにした。相手の考えを理解することと賛成することは別のことである。「あなたの考えはよくわかる。でも、賛成できない」といっていいということである。
一般的にいえば、断れば相手との関係が決定的に悪くなるとわかっていれば、断らない方がいいのだが、それでも、自分の自由が脅かされる場合は断固、否といわなければならない。嫌われることを恐れる必要はない。
※岸見一郎さんの他の回はこちら。
1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。