『毎日が発見』本誌で連載中の哲学者・岸見一郎さんの「老後に備えない生き方」。今回はその6回目を掲載します。テーマは「嫌われる勇気」。
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前の記事「なぜ私は父との関係をよくしようとしなかったのか/岸見一郎「老後に備えない生き方」(5)」はこちら。
なぜ今を生きられないのか
未来と過去を手放さなければ、今日という日をふいにしてしまうということを見てきた。未来を思って不安になったり、過去を思って後悔したりするのは「今」のことである。また、後悔は自分を責める感情だが、過去にあったことについて怒りを感じることもある。
問題は、これらの感情は何の役にも立たないということである。
まず、未来は文字通りまだきていないので、今どれほど不安になっても起こることは起こり、起こらないことは起こらないからである。起こるとしても想像していた通りに起こることは決してない。大抵は、恐れていたほどのことは起こらない。
また、過去も文字通り、過ぎ去ってしまい、もはや過去に戻ることはできないので、過去にあったことを今どれほど後悔し、怒りを感じても甲斐はないからである。
それなのに、なぜ人は未来を思って不安になり、過去を思い出して後悔するのか。また、過去にあったことをめぐって怒りを感じるのか。なぜ、不安、後悔、怒りに囚われ、今を生きられないのか。不安や後悔という感情をある目的のために創り出しているからである。
【感情の目的】
感情をある目的のために創り出すという言い方には説明が必要だろう。
普通は、何か原因があって、その結果として感情が起きると考える。
例えば、ある若者が、喫茶店で通りかかったウェイターにコーヒーをこぼされた。彼はカッとなって店中に響き渡る声で怒鳴りつけた。この場合、コーヒーをこぼされたことと、大きな声を出したことの間にはタイムラグがないので、コーヒーをこぼされたことが原因で、その怒りで大きな声を出したことが結果であるという因果関係があるように見える。
しかし、実際には、誰もがこのような状況で大きな声を出すわけではない。手に持った石は放せば間違いなく地面に落下するが、人間の行為は何かの原因があれば必ず誰もが同じことをするという必然性はないのである。
もしも、コーヒーをこぼしたのが美人の若いウェイトレスだったら、若者は一瞬にして判断をし、大きな声を出さず「大丈夫です」などといってにこやかに対応したかもしれないのである。
なぜ、このような対応の違いが起きるのか。その違いは「目的」によって説明できる。
大きな声を出すことには、相手に謝罪させるという目的があったのである。実際、料理に異物が混入していたと言いがかりをつける客がいれば、ウェイターは謝罪し、客の理不尽な要求に屈してしまうかもしれない。
他方、相手がウェイトレスであれば怒鳴らないとすれば、こんなことがあっても感情的にならず紳士的な対応ができるいい人だと思われたいという目的があったのである。このように、怒りはついカッとして起こるわけではないのである。
【不安】
同様に、不安、後悔、怒りという感情にも目的がある。
不安になる人は、不安を感じていることについて少なくとも積極的に何もしようとしない。漠然とした不安を感じることもあるが、例えば誰かといつか一緒に暮らすことになった時に、はたしてうまくやっていけるだろうかという具体的なことについて不安になっても、何もしない。何もしないというより、何もできないというのが本当である。
読者からの相談を見てみよう。
「人はいろいろな理由で死にますが、癌は手遅れになってからでないとわからないことが多くて、いつ自分が癌になるかと思うと不安です」
どこでいつどのように死ぬかというようなことは誰にもわからない。自分ではどうすることもできないことについては不安に思わなければいい。
もちろん、定期的に検診を受けるなどして早期に発見できるにこしたことはないが、部位によっては発見が遅れることはある。
私は心筋梗塞で倒れ、冠動脈のバイパス手術を受けたことがある。心臓に血液を運ぶ動脈が閉塞するのが心筋梗塞だが、冠動脈はわずか2ミリから3ミリである。そこに血栓が詰まったのである。
この血栓は3つのストレスが同時にかかったらできると主治医に注意されたことがあった。締切のある仕事をし、風邪をひき、親戚に不幸がある。これで3 つである。いつ再発するか不安に思っても甲斐がないということである。
この人が、いつ自分が癌になるか不安であると訴える一方で、「だから、一日一日を楽しく有意義に頑張りたいです」ということに首肯する。
【後悔】
後悔するのは何のためか。
「癌といわない方がよかったのか。亡くなって3年が過ぎましたが、今でも後悔しています」
この人は今も後悔することで自分の判断が間違っていなかったと自分に言い聞かせているのである。看病や介護では後悔しないことは決してないといっても過言ではない。判断の誤り、不可抗力の事故は避けることはできない。特に告知をするか、しないか、するとすればいつするかの判断は難しい。
今は癌も治る病気になってきているので、治療者は告知することをためらわなくなっているが、家族は迷うことが多い。
今、3年前に戻ることはできない。後悔しないで、その時、できることの最善の選択をしたと思ってほしい。
「癌とわかった時、夫から誰にもいわないでくれといわれ、家族だけで内密にしていました。亡くなった時に近所の人たちからひどく怒られました。私は夫の尊厳と信じて、貫き通しました。後悔はないのですが...」
この人は、後悔はないといいながら、気持ちは揺れているのだろう。この場合は誰にもいわないようにいわれていたのだから、後悔しなくていいと思う。誰にもいわないでくれという夫の意思を守るためには、後になって近所の人から怒られるということは当然覚悟しなければならなかったのである。
【怒り】
過去にこじれた人との関係を修復しないためにいつまでも過去に囚われていることがある。
この場合も、今もその人との関係を自分から修復しないのは、自分が正しくて相手が間違っていたと思いたいからである。過去の相手の言動に今も怒りを感じることもある。
私は子どもの頃に父に殴られたことをいつまでも忘れることができなかった。その一件にいつまでも私がこだわり、過去を手放そうとしなかったのは、父との関係をよくしようとしないためだった。
関係をよくするのもしないのも今決められるのだから、過去のこととは関係なく関係をどうするかは今決めればいいのである。
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岸見一郎(きしみ・いちろう)先生
1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書はベストセラーの『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。