人はいつでも変われる。ではどうすれば変われるのか?/岸見一郎「老後に備えない生き方」

哲学者・岸見一郎さんによる「老い」と「死」から自由になる哲学入門として、『毎日が発見』本誌でお届けしている人気連載「老後に備えない生き方」。今回のテーマは「人はいつでも変われる」。人が変わることは難しいと思われがちですが、岸見さんはどのように考察されたのでしょう――。

前回の記事『人は変われるのか?自分を変えられない2つの理由とは』はこちら

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どうしたら変われるのか

それでは、どうすれば自分を変えることができるだろうか。

まず、何が起こるかわからないが、何が起こってもそれを引き受ける勇気を持たなければならない。多くの場合、予想しているほど怖いことは起こらない。むしろ、怖いことは何も起こらないといっていい。

いつか電車に乗った時に満員ですわれなかったことがあった。ふと見ると二人がけの席の一つに物を置いている人がいた。いかつい体つきの男性だったので、声をかけず立っていることにした。すると、後から乗り込んできた若い男性がその人に「すいません、その鞄」と声をかけると、「あ、すいません」とすぐに鞄をのけた。

電車の中で席を譲ろうかどうしようかと迷っているうちに、その人が降りてしまったという経験はないだろうか。声をかけたら席を譲ってもらうような歳ではないといわれるのではないかなどと考えてしまうと、機会を逸してしまう。実際には怒る人がいるとは思わないが、たとえそんな人がいても、席を譲る側が考えることではない。

次に、「でも」というのをやめる。カウンセリングでは、来談者にこんなふうにしてみたらという助言をする。その時、「でも」という人は、助言通りにしてみようという気持ちとしたくないという気持ちが拮抗しているのではなく、「でも」といった時は「しない」と決心しているのだ。

その上で、できない理由をあげるが、それらはすべてしないことを正当化する理由でしかない。アドラーは、「Aなので(あるいはAでないので)Bできない」という論理を日常生活の中
で多用することを「劣等コンプレックス」といっている。

このAとして自分も他者もそういう事情があるのならできなくても仕方ないと思うような理由を持ち出す。

アドラーは「誰でも何でも成し遂げることができる」という。無論、実際にできないことは多々あり、病気になり歳を重ねていくとできなくなることが増えていく。しかし、本当はできるのにできないという思いを固定観念にすることをアドラーは問題にしているのである。

身体的なことというよりは、他者との関係でこれまでしてこなかったこと、例えば、「ありがとう」という声をかけるというようなことを、そんなことはできないと思わないでしてみると他者との対人関係は必ず変わる。

自分で決められる

自分を変える決心をするまでもなく、事故や災難など外から降りかかってくることや、老いや病気など自分の内側に起こることによって、自分を変えることを余儀なくされるように見えることがある。

事故や災難に遭うことを望む人はいない。老いることや病気になることも同じだ。生涯一度も病気にならない人はいないだろうし、歳を重ねると老いないわけにいかない。そうなると、前はできていたことができなくなるということはあるだろう。だからといって、人が必ずそのことで変わるわけではない。

アドラーが、人間は外界からの刺激に単に反応する存在(反応者、reactor)ではなく、行為者(actor)であるといっているということについては、前にも見たが、人間はある出来事や経験から誰もが同じ影響を受け、それに対して同じ反応をする(react)のではない。人は外界からの何らかの刺激を受けた時にどう行為するかを決めることができる。

事故や災害などの外界からの刺激、病気や老いなどの身体の内からの刺激に対してどう反応するか、それをどう受け止めるかは人によって違うが、はっきりしていることはこれらの経験をすることで何らかの仕方で人生が変わらないわけにはいかないとしても、どう生きていくかは自分で決めることができるということである。従前の通りの生き方をするのも、違った生き方をするのも自分で決められるということだ。

自分に降りかかる出来事に最初は圧倒されるので、一瞬にして不幸のどん底に陥れられたと感じる。痛みはひどく、悲しみは癒え難いが、それでも、そのような出来事が人を不幸に陥れるわけではない。その後、どう生きていくかを決められるところに人間の尊厳がある。

「今」から変えられる

「その後」どう生きていくかを決められると書いたが、「今」からでも変えることができる。

まず、これから自分を待ち受けることが必ず怖いことであるわけではないと知っていなければならない。経験したことがないことは怖いものだが、知らないことを恐れるのはおかしい。

老いるとどうなるかは他者を見ていればある程度はわかるけれども、自分が実際どうなるかはわからない。老いることは避けられない。そうであれば初めから忌避するのではなく、老いという現実を受け止めるしかない。

前にも見たように、老いも病気も「変化」でしかない。中国語には「髪老」という言葉がある。ただ老いへと変わるだけであって、価値が低下するわけではない。

次に、先に見たように、外から、あるいは自分に起こることを経験したからといって、そのことで不幸になるのではないように、進学、就職、結婚のような幸運が人を幸福にするのではないのだから、幸運を経験しなくても幸福になれるのであれば、幸運とは関係なしに今ここで幸福になることができるのだ。

ここで幸運の例としてあげたことを成功と見なす人はいるだろうが、成功したからといって幸福に生きられるとは限らない。反対に、事故や災難に遭うこと、病気になることが不運であり、不運に遭えば不幸になるとは限らない。

哲学者の三木清は「幸福は存在に関わる」といっている(「人生論ノート」)。人は何かを達成しなくても、幸福で「ある」ということである。病気になっても老いても生きていることに価値があり、生きているだけで幸福であることがわかっていれば何があっても心は微動だにしないだろう。

ぜひ、じっくりと読んでみてください。岸見一郎さん「老後に備えない生き方」その他の記事はこちら

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)さん

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2020年1月号に掲載の情報です。

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