「他者の痛みに対してできること」【哲学者・岸見一郎さんが語る】

他者の苦痛に対してできること

苦痛はこのように個人的なものなので、本人以外の人があなたの苦痛はよくわかるとはいえないのである。しかし、そのような苦痛に対して何もできないわけではない。医師と患者の関係を例にすれば、まず、身体だけが痛むことはないと知ることである。痛みのために夜眠れないと患者が訴える時、ただ痛いといっているのではない。この痛みは一体いつまで続くのか、仕事に復帰できないのではないかという不安を引き起こす痛みは「社会的痛み」といえるものである。

このような不安は、もしも病気が速やかに治癒することが予想され、実際痛みがほどなく消失すれば生じない。しかし、社会復帰どころか、死ぬのではないかという不安に襲われることがある。そのような時、患者は医師よりも死に近いところにいる。吉松和哉(※3)が、医師は自分の具体的な死については遠い先の出来事としてしか想像できない、だから、死をめぐっては、医師と患者の間には大きな隔たりがあるといっている(『医者と患者』)。

先に引いたヨハン医師は「取り除くのは患者の痛みであって、生きる苦しみではない」といっている。事実その通りだろう。しかしそうであっても、患者が感じている苦痛を理解しようと努めることは必要である。

次に、他ならぬ目の前にいるこの患者の苦しみを見なければならない。私が心筋梗塞で入院した時の主治医は、私の痛みだけでなく、退院後に私を待ち受けている人生にまで目を向けられる人だった。医師は退院前に再度、冠動脈造影検査をするためにカテーテルを挿入する時に、「書く仕事をしているのだから、万が一のために利き手でない左手からにしよう」と提案した。

医師とて患者と同じ痛みを経験することはできないが、患者の感じている不安に共感することは可能である。その共感する努力が伝われば、患者は医師が自分を一般的な患者としてではなく、他ならぬこの私に向き合ってくれていると感じられる。

家族も苦しみを理解することは難しく、慰めることはなおさら難しいが、病む人は家族が自分の苦しみを理解し共感しようとしてくれていると知ることで、生きる勇気を持つことができる。

※3 1934年〜。精神科医。

病む人ができること

苦しんでいる当の本人は、他者にあまりに期待してはいけない。自分が感じている苦痛を他者も同じように感じるわけではないからである。

しかし、自分が感じている痛みや苦しみは他の誰にも決して理解されないと思ってはいけない。自分の苦しみを他者が理解することは困難かもしれないが、無関心であるわけではない。

他者はできる限りの援助をしようとしているのだから、苦しい時は苦しいといい、助けてほしいことをはっきりと言葉で伝え、援助を求めていい。

※記事に使用している画像はイメージです。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

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