月刊誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「苦しみと向き合う」です。
この記事は月刊誌『毎日が発見』2023年8月号に掲載の情報です。
苦しみは消える
ハン・ジョンウォン(※1)が何度もつらい死別を経験した友人のことを書いている(以下、引用は한정원『시와 산책』)。彼女を慰めたいと思った。笑顔を取り戻したように見えても、笑顔と笑顔の間に暗い窪(くぼ)みがないわけはない。慰めの言葉を尽くしても、いつも彼女を慰めることはできないと痛感した。
どうすれば苦しみの渦中にある人の力になれるかと私も思う。しかし、ジョンウォンと同様、何もできないと思ってしまう。苦しみの渦中にある人に共感することは難しいからである。
「冬の心で冬を見つめるのは当たり前のようだが、顧みると、そのように見られないことの方が多かった。春の心で冬を見ると、冬は寒く悲惨で虚しく、早く消えなければならない季節だ」
冬の心で冬を見つめることはできない。このジョンウォンの言葉は、アドラー(※2)が「共感」について、他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じるといっていることを想起させる(『個人心理学講義』)。自分の目でしか見ることができないように、春になればもはや冬の心にはなれないのである。しかし、冬は春の心で見た、ただ寒くて悲惨なものではない。
苦しみも他の人の目にはただつらいものにしか見えないが、そうではない。ただし、それは後になって本人だけがわかることであり、他人がこの苦しみにも何か意味のあることであるというようなことはいえない。
「しかし、どんなに急かされても、冬は時間を満たしてやっと去っていく、苦しみがそうであるように」
春はこないのではないかと思っていても、春は必ずやってくる。だから、冬が立ち去るまでは耐え忍ばなければならない。
「時間がどれほど経っても『もう帽子を脱いだら』といわないこと、見守ることと沈黙することが唯一私ができる慰めである」
帽子を脱ぐかどうか、いつ脱ぐかは自分しか決められないのである。
「苦しみは消えない。しかし、苦しみの上にも季節は過ぎていく。季節ごとに、苦しみはいつも違う帽子を被って存在する。私たちができるのは、帽子が変わるのに気づくことくらいかもしれない」
厳密にいえば、苦しみが帽子を被るのではない。
「私は彼女が被った帽子をじっと見た。どんな帽子を被っても、彼女の美しさが損なわれることはなかった」
苦しみは帽子であって彼女ではない。彼女が苦しみの帽子を被り、苦しんでいるのである。
苦しみは「属性」である。属性とは「事物や人の有する特徴・性質」という意味である。「彼女は美しい」という時の「美しさ」が属性(彼女に属している性質)である。
帽子を変えても帽子を被る人は変わらない。変わらないのは彼女の美しさではなく、彼女自身である。その彼女の美しさも実のところ変わっていく。それでも、彼女自身は変わらない。
彼女の苦しみも属性であり、帽子である。帽子は脱ぐことができる。だから、いつか自分で決心して脱ぐと決めれば、苦しみは消えるのである。
※1 詩人。著書にエッセイ集『詩と散策』がある。
※2 アルフレッド・アドラー(1870 〜1937 年)。オーストリアの精神科医、心理学者。
人間の尊厳
ジョンウォンは小鹿島(ソロクト)(※3)でボランティアとして一日八時間病院で働いた時のことも書いている。この島のハンセン病患者のほとんどが、日帝の強制占領期から暮らしている。すぐに故郷に帰れると思っているうちに、八十年余りの歳月が流れた。強制労働に駆り出され、精管を切断され、人体実験の犠牲にもなった。家族と生き別れたり、虐殺された人もいた。生き残った人は証人のように、手と足の指、瞳を失った。
このようなことを聞けば、誰もが不幸が彼らを襲ったと考えるだろうが、ジョンウォンは、そうは考えない。
「私が学んだのは、正常でない外貌(がいぼう)が人を醜くしたり、不幸が人間の尊厳を害しないということ、外に現れる条件に押し潰されず、格を守るということ」
人間が意思に反して強いられた苦しみはいつまでも消えない。しかし、この苦しみも、不幸も属性であり、帽子のように脱ぐことができる。その決心ができるまでは長い時間が必要だが。
※3 韓国南部の島。日本の植民地時代の1916年、朝鮮総督府により療養所が開設。最大6000名を超えるハンセン病患者が収容された。