哲学者・岸見一郎さん「どうしたら他者を理解できるのか」/生活の哲学

定期誌『毎日が発見』の人気連載、哲学者の岸見一郎さんの「生活の哲学」。今回のテーマは「ありのままの相手を見る」です。

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理解は同一視

アドラー(※1)は子どもをよりよく理解できるためには、子どもに共感し、子どもと自分を同一視することが最善の方法であるといっている(『教育困難な子どもたち』)。この「共感」や「同一視」が何かを説明するために、次のような例をあげている。

綱渡りの曲芸師がまるで地面の上を歩いているかのように綱の上を進むのを見た時、自分がその綱の上に立っているとしか説明のしようがない緊張感を覚えるだろう。また、多くの聴衆を前にして演説している人が、話の途中で突然言葉が出なくなった時、それを聴いている人は、自分も恥ずかしい目にあったかのように感じるだろうともいっている。

自分と相手とを同一視する―これが相手を「理解する」ために必要である。

演劇を見る時には俳優が演じている役に、本を読んでいる時には登場人物に共感する。他者を理解する時にも、小説を読む時と同じような共感ができなければならない。相手を正しく理解するためには、自分の見方を傍に置き、自分を相手の立場に置いて相手と一体化する必要がある。自分を相手の立場に置くというのは実際には簡単ではない。自分だったらこうするだろう、こう考えるだろうと自分の立場からしか相手を見られないからである。

山本七平(※2)が、冬の寒い夜にかわいそうと思って、ヒヨコにお湯を飲ませて殺してしまった人の話を引いている(『「空気」の研究』)。

ヒヨコにお湯を飲ませるのは、完全な「感情移入」であり、対者(ヒヨコ)と自己との区別がなくなってしまった状態だといっている。

山本のいう「感情移入」は、アドラーの共感や同一視とは違う。自他の区別がなくなるところまでは同じだが、山本の感情移入は、自分を相手の立場に置くのではなく、相手を自分の立場に置くことだからである。山本の言い方では、ヒヨコにお湯を飲ませたこの人はヒヨコに「乗り移り」、私は寒中に冷水を飲むのはいやだからと、自分が乗り移ったヒヨコにお湯を飲ませたのである。

山本が引くこの例は特異だが、自分の見方を相手に重ね、自分がこのように感じるのだから、相手もきっと自分と同じように感じているに違いないと思う人も、実はヒヨコにお湯を飲ませた人と同じことをしているのである。

自分の立場からしか相手の感じ方、考え方は理解できないというのは本当だが、誰もが自分と同じように感じ、考えていると思っているのは問題である。

※1 アルフレッド・アドラー(1870 〜1937 年)。オーストリアの精神科医、心理学者。
※2 1921〜1991年。評論家。

他者は理解を超える

親が子どものことは誰よりも親である自分が理解しているといえば、子どもは困惑するしかない。

他者を理解するというのは、むしろ、他者が自分の理解を超えていることを知ることである。フランス語では理解するはcomprendre、「含む」という意味だが、他者は含めることができない、その意味で理解を超える。

これを認めることが、他者を理解することの出発点である。親子に限らず、他者は必ず自分の理解を超える。この人のことはよく理解していると思っているとしたら、本当は理解していないのである。

R・D・レイン(※3)は、子どもから嫌いといわれて母親が平手で子どもを打つという事例をあげているが(Self and Others)、このような反抗的な態度を取るという形であっても、子どもが親にとって他者(a separate being、親から切り離された存在)になるのが望ましい。

子どもが何らかの形で親の意に沿わない言動をし始めた時、子どもを他者と認めることができない親は、子どもを自分の「理想」のうちで生かそうとする。子どもが親に従順であってほしい、自分を愛してほしいと願う親は子どもに「理想」を押し付け、子どもが自分の理想から外れた言動をした時も、それを見ないか、自分の理想に合わせた解釈をする。レインのあげる例でいえば、子どもが親を好きではないといっても、「本当は」あなたが私のことを好きだということはわかっているというようなことである。

子どもの側からいえば、この親の言葉を聞いて、そうかもしれないと思ってはいけない。自分と親とは別人格として生きること、親がたとえ理解できないことを受け入れられないとしても、親の期待を満たそうと思わないことが自立するということである。親の理解を超え親が動じるという仕方であっても、親に影響を与えうる存在になることで、子どもは親の理想ではない自分自身になれる。

親の側からいえば、子どもがもはや自分の理想通りに生きることはなく、もはや自分のもとに留まることはないと知ることで、子どもから自立できる。子どもが自分とは別人格であり、自分の理解を超える存在であることを知ることが、ありのままの子どもを認めるということである。親子を例にして考えたが、以上述べたことはあらゆる関係に当てはまる。

※3 1927 〜1989 年。イギリスの精神科医。主な著書に『ひき裂かれた自己』『自己と他者』などがある。

「他者」を理解するために

それでは、他者は理解できないのか。せめて他者の理解に近づくことはできないのか。できることはある。

まず、言葉を交わすことである。言葉を少しでも交わせば、相手が自分の理想とは違うことがわかる。これは相手に幻滅するというような意味ではない。ありのままに相手を見るということである。その上で、たとえ相手を理解できないとしても、関わっていくことはできる。

次に、他者を気遣うことである。私の孫が幼かった頃、私が咳をしたらすぐに大丈夫か問うてくれた。自分も咳をした時に苦しかったことがあるので、私もそうだろうと思ったのだろう。「大丈夫」と私が答えても、安堵こそすれ落胆はしないだろう。言葉で確認することで、自分の共感が常に当たっているわけではないのを知ることはできる。

こうして、先に見た親のように相手の言葉を自己本位に解したり、自分と同じように感じているに違いないとヒヨコにお湯を飲ませるようなことはしなくなるだろう。

 

岸見一郎(きしみ・いちろう)先生

1956年、京都府生まれ。哲学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。著書は『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(古賀史健氏と共著、ダイヤモンド社)をはじめ、『幸福の条件 アドラーとギリシア哲学』(角川ソフィア文庫)など多数。

この記事は『毎日が発見』2023年3月号に掲載の情報です。

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